ぼくの名前は桑古木涼権。それ以外のことは良く分からない。
 気が付いたらテーマパークLeMUの中にいて、訳の分からない浸水事故に巻き込まれて……不安でやる瀬ない数日を過ごしていたんだ。
 そんなぼくの支えになったのが、そこで知り合った八神ココっていう女の子だ。天真爛漫っていう言葉がぴったりで、本当に、ぼくの女神様と言ってもいいくらいなんだ。
 そして、ぼくはそんな彼女とクヴァレで――。
 でも――現実はぼく達を祝福してくれなかった。
 ティーフブラウ。致死率八十五%以上の恐ろしい病――ぼく達ほとんど全員が侵され、死生の狭間をさまよった。
 全身の粘膜から血が吹き出し、症状緩和のためのオレンジアンプルが無ければ、歩くことさえおぼつかない。
 今までも常にぼくの周りにつきまとっていた“死”への恐怖が再び爆ぜた。
 そんなぼくを宥めてくれたのは武だった。
 そして、その武が持ち出した、生き残るための最後の手段――キュレイであるつぐみが産み出した抗体をぼく達に投与すること。
 それは、スサノオノミコトがヤマタノオロチを切り裂いた天刃々斬なのか、それとも――。
 だけど、ぼく達に選ぶことなんて出来なかった。人は生きている限り生きるべきだと教わったから――。
 そして、ぼくは眠りに就いた。
 そう――それは一時の眠り……抗体が効果を現し、救助がやってくるまでの時間稼ぎに過ぎないはずだったんだ……。  でも……ぼくが目覚めたとき、目と耳に入ってきたのは……。
「パパ!」
「お父さん!」
「……」
 年で言うなら、ぼくと同じか、少し上くらいの少年少女にそう呼ばれ、ぼくの意識は再びあちらの世界に行ってしまいそうになった。
 
 
「……」
 ぼくはぼんやりと窓越しに見える風景を眺めていた。
 三階の窓からは、だだっ広い茶畑と、若干スモッグ掛かった薄い色の空が望め、ここが郊外であることを改めて認識させられた。
「……記憶も無いのに、変なことは分かるんだね……」
 ふと、一人ごちてみた。
 今は二〇三四年五月。ここは郊外のとある私立高校。ぼくは何が何だか良く分からないうちに編入手続きを済まされ、ここの生徒になっていた。
 優の話によると、ぼくが高圧酸素治療を受けている最中に救助がきて、運悪く取り残されて……そこにパラドックスが生じて、十七年もの間ハイバネーションをせざるを得なかったんだそうだ。
 ……ま、記憶の無いぼくにとって、今が十七年だろうと、三十四年だろうと大差無いんだけど……。
 ……それより、もっと切実なのが……。
「パパ〜♪」
「お父さん!」
「……」
 この二人だ。
「ねえ〜、パパ〜。学校終わったら、服見に行こうよ」
「ずるいよ、沙羅。お父さんはぼくと一緒に喫茶店に行くんだよ」
「あのさ……」
 意を決して口を開いてみた。
「パパは止めようよ……」
 休み時間の度にぼく達の教室に飛び込んでくる、ホクトと沙羅と言う少年少女。
 ……いや、二人が呼ぶ通り、ぼくは彼らの父親であり、それは優に突きつけられたDNA鑑定書できっちり証明させられた。
 そして優に『男として責任を持って行動しなさい』と、かなりこってり絞られたんだけど、それは置いておいて――。
 とにかくぼくは一年生で、二人は二年生……先輩が自分の子供なんて、冗談にもなりゃしない。
「ええ〜。パパはパパだよ〜」
「うん、お父さんはお父さんだよ」
「……」
 さっきから、好奇の視線が痛かった。
 お願い……ぼくの幸せを少しでも願っているなら、クラスメートとの距離を広げないで……。
「ああぁ〜、ホクたんにマヨちゃんだ〜」
 廊下からやってきたのは、ぼくの最愛の人、八神ココ。この二人の母親に当たる。
 彼女もまたティーフブラウからの生還者なのだが、治療のためハイバネーションと病院通いを繰り返していたため、学年はぼくと同じだ。キュレイウィルスの影響もあるのか外見もほとんど変わっていない。
「ねえねえ、ひよこごっこしようよ〜」
「それより、忍者ごっこがいいでござるよ〜」
「ぼ、ぼくはどっちでも……」
「……」
 ……これが高校生の会話なんだろうか……?
「ねえ〜、パパ〜。パパはどっちがいい?」
「だから、パパって言うなぁ!」
「!! ママ〜、パパがいじめるよ」
「うん、私、ママだよ〜」
「否定しようよ!」
 クラスメート達の、好奇を通り越した、異形のものを見るような視線の中、ぼく達の時間は穏やかに流れていった。
 
 
「……そう。楽しそうでいいんじゃない?」
「……楽しいのかなぁ……? 何か、みんなに流されてるだけって感じなんだけど……」
「幸せについて考えずに済む状況を、本当の幸せって言うのよ」
 優はそう言うと、ぼくの前にティーカップを差し出した。中には琥珀を極限まで濃縮させたかのような色の液体が満たされており、その上には薄切りの檸檬が浮いている。いわゆるレモンティーというやつだ。
 ぼくはそれをそっと持ち上げると、ゆっくりと口に含む。紅茶独特の甘みと苦み、そしてレモンの酸味が口の中に広がり、何とはなしに落ち着いた。
「……それで……記憶は戻ってないのね?」
「……全然」
「……戻したいと思う?」
「……わかんない」
 多分、本音なんだと思う。自分の過去について知りたいって欲求はもちろんあるけど、それを知った瞬間に、全てが壊れてしまいそうな恐怖感もある。
 優が言うように、今が幸せっていうやつなら、無理して戻す必要も無いんじゃないかって思う一方で、やっぱり知りたい自分がいて――もうぐちゃぐちゃだった。
 考えることを放棄して、時間が流れるままにしておくのが一番楽なんだ。
「……ねえ、優……」
「……何?」
「……今ってさぁ……本当に現実なのかなぁ?」
「……何、それ?」
 意表を突いた質問だったのか、優は頓狂な声を上げた。
「ほら、走馬灯ってあるじゃない。死ぬ寸前の人間が、一瞬で自分の人生を全部、思い出すってやつ。あれと似た感じでさぁ、本当のぼくはまだIBFにいて、夢でも見てるんじゃないかって」
「……キュレイシンドロームね……」
「キュレイ……?」
「ええ……“司祭”の名を冠する、もう一つのキュレイ……不確定要素を信じることで現実のものとしてしまう、まあ世間的にはオカルト的学説に分類されるものね」
「……妄想、ってこと?」
「違うわ。その人にとって真実はそこにあって、それが真実になるの」
「??」
 さっぱり分からなかった。
「……まあ、これがあなたの中なんだったら、私には手を出せないわね……私自身があなたの中にいる私なんだから」
「……全然分からないんだけど……」
「……その内に分かるわ……要するに真実なんて一つじゃないってことよ」
 言って優は紅茶を啜った。その様は妙に艶めかしく、ぼくは少しだけドキリとした。
「……少年。実感無いでしょうけど、あなたは二児の父なんだからね。浮気なんかしたら、世界中の女性を敵に回すわよ」
「し、しないよ。そんなこと」
 そう口にしたものの、目を合わすことが出来ない自分に、ぼくの顔は限界ギリギリまで火照っていた。
 
 
「ねえ、ホクト……起きてる……?」
 ぼくは、二段ベッドの上にいる自分の息子に問い掛けた。
 事件終結の後、沙羅が提案した、家族四人で住むという案は、『もう二度と間違いがあったら駄目だから』という優の一言で一蹴された。
 そこで提唱された妥協案は、ぼくとホクト、ココと沙羅が同室の寮に入るというものだったのだ。
「……うん、お父さん」
「……ねえ……本当にぼくでいいの……?」
 これまで二人を育ててくれたのは、武とつぐみだった。十七年の事故の後、二人は籍を入れていて、ハイバネーションを繰り返さざるを得なかったココに代わって、養子にとってくれたらしい。
 そんな二人に、もちろん感謝の気持ちはあった。だけど、それ以上に心を支配していたのは、情けなさだった。子供を育てることさえ出来なかった自分への憤り。
 もちろんある程度の不可抗力があることも理解しているけど、感情はついていかなかった。
「……ぼくは武みたいに強くない……感情を抑えることも出来ないし、本当に大変な時、冷静に行動も出来ない……愛する人のため、命を投げ出せるのかも分からない……」
 言葉にして、自分で自分が情けなくなる――だけど……事実なんだ……。
「……お父さんの言いたいこと、何となく分かるよ……でもね……」
「……でも?」
「お父さんじゃなきゃ駄目なんだと思う……」
「……」
 その一言に、ぼくの心は少しだけ熱くなった――。
 
 
 トクン、トクン、トクン――心臓が高鳴っていた。
「ね、ねえ……本当にやらなきゃ駄目……?」
「当たり前でござるよ。男に二言は無いのでござる」
「ぼ、ぼくも見たいかな」
「いやだ〜、もう。ココ、照れちゃうよ〜」
 ココは何だか手足をバタバタさせていて、異様にテンションが高い。
 一方のぼくは緊張のため、神経伝達系の反応が異様に鈍かった。
「……ま、まあ、ゲームで負けたら何でも言うことを聞くって言ったけど……」
「だから、ママとキスすればいいのでござる。今更照れることも無かろうて」
「うう……」
 た、たしかにこれが初めてって訳じゃないけど……人前でってなると……。
「涼ちゃん♪」
 真正面から見据えられ、心臓が爆ぜるのでは無いかと思うほど強くなった。
 頭が、ポォ〜っとする……。ええい、もうどうにでもなれ!
 ぼくは彼女を抱き寄せると、両目を瞑り、唇を重ねた。
 虚を突かれたのか、吐息や鼻息がこそばゆいが、すぐに収まる。
「……」
「……」
「……」
 どれくらいの時間が流れたのであろうか。感覚として、まったく理解できない。
 一分? 五分? 十分? それとも――。
 だけど、そんなことはどうでもいいようにも思えた。僕にとっての幸せは、今、ここにあるんだから――。
 
 
「……結局、結構楽しんでるんじゃない?」
「……そうかも……」
 優の言葉を否定できず、小さく同意した。
「……それで……何の用?」
「この前の……何だっけ? キュレイ――」
「……キュレイシンドローム?」
「そう、それ。もう少し詳しく聞かせてくれない?」
「……」
 優はまるで呆れたかのように表情を緩めると、わざとらしいまでに大きな溜め息をついた。
「……少年。あなた、まだ今が現実じゃないって思ってるの? 邯鄲の夢だとでも?」
「……カンタン?」
 簡単と発音したのがそんなにまずかったのだろうか。優は再び顔を崩すと、深々と息を吐き出した。
「邯鄲の夢。中国の故事でね。邯鄲って町で盧生って若者が自分の思い通りの出世コースを歩むんだけど、夢オチで実際には粟飯が煮えるくらいの時間も経って無かったって話よ。
 まあ、つまり人生なんてそんなちっぽけなもんよと言いたい訳なんだけど、それは関係ないわね」
「はぁ……」
 何か、話が逸れてる気がするんだけど、切ったのぼくなのかなぁ……?
「……それで?」
「……それで?」
 単語の脈絡を理解できず、オウム返しに聞き返してしまった。
「……今に何か不満?」
「……え?」
 言われて考えてみるとたしかに――。
「……そんなに……無いのかな……?」
「……ふむ」
 小さく声を上げると、手元のティーカップを口元に寄せた。
 ……どうでもいいけど、何でぼくはオレンジジュースなの……?
「……成程ね……」
「……一人で納得されても困るんだけど……」
「言ってもどうせ理解出来ないわよ」
「……」
 流石にカチンときた。
「そんなの聞いてみないと分からないじゃない」
「……どうかしら?」
「……」
 一種の挑発なのか、優は意地悪く微笑んでいた。そんな姿に、ぼくは憤りにも似た感情が心を満たしていくのを感じていた。
「……ふふふ。ごめんなさい」
「……?」
「……いいわね。あなたは素直で……」
「……単純だって言いたいの?」
「違うわ。純粋ってことよ……」
「……」
 そう口にした優の目は、何処か遠くを見ているように思えた。
「……それで……さっきの話なんだけど……まあ、噛み砕いて言うわね。あなたがキュレイシンドロームである可能性はあまり高くないわね」
「え……?」
 理解できなかった。
「キュレイシンドロームの共通の症状として、過去、現在、未来のいずれかに対して漠然とした不安があげられるの。それにこの症状はその気になれば、全てを捻じ曲げられる力。つまりあなたは過去の記憶を保有しつつ、ココやホクト君、そして沙羅と一緒に居られる現在、そして未来を産み出すことも可能な訳よ」
「……え……えっと……?」
「まあ、これだけでキュレイシンドロームの完全否定って言う訳にもいかないけどね。だって、『過去を思い出したくないあなた』が、過去への不安を糧に、この現実を産み出したって仮説も、筋が通っているって言えば通ってるし……」
「……」
「どう? 理解できた?」
 軽い感じで言い放つ優に、ぼくは底の無い敗北感を感じていた。
 
 
『ねえ……ここは何処? お母さんは?』
 夢を見ていた。
 何故それが夢だと理解できるかは説明できない。
 明晰夢――それを夢だと自覚できる夢。今ぼくはその中にいるのだと、感覚的に理解していた。
『……ここは病院だよ……君は特別な病気でね……治療が必要なんだ』
『病院……?』
 単語の意味が理解できなかった訳じゃない。ただ、自分が何らかの病気である自覚が無かっただけだ。
 でも、目には白い壁、白い床、白いシーツが入って来て……否応無しに、ここが病室であることを認識させられた。
『それでお母さんは? お見舞いとかに来てくれないの?』
『……ああ……ちょっと外の人に会わせることは出来ないな』
『……』
 良く分からなかった。
『さぁ……ちょっと、血を採らせてもらうよ……』
『……何で?』
『研究のために必要だからね……』
『……研究……?』
 再び分からなかった。
 
 途端――視界がぼやけた。
 意識が、夢の終わりを告げている。何でだろう。この先を見てはいけない。心がそう囁いているように思えた。
 
「……」
 悪夢を見た直後特有の嫌な寝汗をかいたまま、ぼくはベッドの上で半身を持ち上げていた。
 何なんだろう……今の夢は――。
 
 
「……」
 『過去を思い出したくないぼく』が『この幸せな現実』を産み出している。
 優の言葉が頭を離れなかった。
「……ぼくはここにいる……」
 何とはなしに右手を見詰めてみる。そして意味も無く、拳を握っては開く動作を繰り返してみた。
 痛みとか、こそばゆさとかは無いけど、手の平に指が触れる感覚はしっかりとある。
 やっぱり、ぼくはここにいる……よね……?
 
 その問いに答えてくれるものはいなかった――。
 
「涼ちゃ〜ん」
「!」
 不意に声を掛けられ、慌てて顔を上げる。そこにいたのは――。
「ココ……」
「?」
 最愛の少女、八神ココであった。
「ココ!」
 衝動的に――そう、ぼくは考えるより先に彼女のことを抱き締めていた。
「ちょ……涼ちゃん……痛いよ〜」
「……」
 腕に篭める力を弱めることが出来なかった。
 ココが実存していること――それがぼくにとって道標になっているように思えたから――。
「ねえ……ココ……」
「うん?」
「……ううん……何でもない……」
「……変な涼ちゃん」
「……」
 ココは――間違いなくぼくの腕の中にいる。
 それが、ぼくにとって唯一の真実なんだ――。
 
                      了
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