夢は、嫌いだった。
 元来、眠りとは無防備な行動だ。睡眠が安らぎであるのは、生態系の頂点に立つ一部の動物だけであり、屠られる側の存在は、常に危機意識を持って休息せねばならない。立ちながら眠る馬などは分かり易い例だろう。最下層に近い、ミジンコやゾウリムシ辺りに危機感という概念があるかどうかは怪しいものだけど。
 私のそれも、似たようなものだった。二十年以上に及ぶ逃亡生活は、極限まで神経を研ぎ澄まし、抜き身の刃と化していた。一分六十秒、一時間三千六百秒、一日八万六千四百秒、一年三千百五十三万六千秒、二十年と五ヶ月で、ざっと六億七千五百万秒――私は、休まることを許されなかった。
 いや――厳密には、安らいだ時もあった。生物種として無上の喜びである、自分と愛する人の生命を継ぐものを得た時。だが、その気の緩みが危機を招いたことも事実で――何時しか、安らぎの象徴である夢そのものが嫌いになっていったように思う。
 幼い頃の楽しかった日々も、反吐を吐きつけたくなる残酷な日々も、永遠の愛を誓った人との出会いも、仮初めの幸せも――目を覚ませば、何も残らない。待っているのはドブネズミ以下の生活だけだから。
 いっそのこと、人なんかに産まれなければ良かったと思うこともあった。自然界に在る、何らかの生物として生を受け、成長して、恋をして、生命を継いだら散ってしまう。思えば、人には無駄な時間が多すぎる。だから、欲望のままに動くのだとも思っていた。
 でも、それは誤りだったのだろうか。人は、人無くして、人として成立しない。父が居て、母が居て、だからこそ今の私がここに居る。それは三十八億年、変わることが無かった生命の紡ぎ糸。有性であれ、無性であれ、生命は生命を遺すため、ここに存在しているのだ。
 人の夢と書いて儚い。だけど私は今一度、夢を見ようと思う。
 家族という名の夢を――。


 西暦二〇三五年四月十六日月曜日。
 部屋が、夕闇に染まり始めていた。時計を見てみると、五時半を少し過ぎたところだ。この病院は六時まで面会が可能で、その後も多少なら融通が利く寛容なところだが、もう誰も来ないだろう。子供達は部活が忙しいらしいし、武も少し遠出をしている。まあ、予定日も大幅に過ぎてることだし、陣痛が始めれば、三人とも飛んでくるだろうけど、いずれにせよ産まれるまで半日は掛かる。間に合わないということは無いだろう。
 不安が無いと言えば嘘になってしまうが、十七年前、頼るものも無く二人を産み落とした時とは、比べるべくも無い。キャリア同士の受胎は前例が無いから、予定日を過ぎているのも、合理的と言えば合理的だ。もちろん、それが不安を助長しているのだが、命を宿して、平静でいられる母親がいるとも思えない。そう、恥じることでもないだろう。
 それに、私がこんな気分なのは、窓の外に佇む夕日が影響しているかもしれない。紫外線を完全に遮断する特製のガラス窓から差し込む橙色の光が私の心を締め付けていた。
 科学的に見て、朝日と夕日は、区別が付かないものらしい。唯、人は相対でしかものを感じられない。星明かりしかない暗闇に射す一条の光。それと相反して、蒼天から濃紺へと変わりゆく、残酷なグラデーション。だからこそ朝日は希望に満ち、夕日は胸に染み入るのだ。
 ちなみに、私は、夜そのものは嫌いではない。理由は単純。赤外線視力を持つ私にとって、可視光の無い世界は、逃亡に都合が良かったから。あの事故に巻き込まれる前は、独りぼっちになった気がして、嫌悪感を抱いていた気もするけど。
 ――不意に、ノックの音がした。以前、深夜に空がやってきたこともあり、反射的に身構えてしまうが、入室してきた来訪者は、私の良く知る、小さな天使だった。
「ママ〜。こにゃにゃちは〜」
 ココだった。私は呆気に取られ、二、三秒の間、硬直してしまう。
「ココ。大分前、ママって言うなって、言ったでしょ?」
「でも、ママがいない人は、ママっぽい人をママって呼んでいいんだよ」
「それ、何に書いてあるんだっけ?」
「ノストラダムスの予言書だよ」
 第三視点保有者を甘く見てはいけないらしい。
「ところで学校はもう慣れた? もう一週間くらい経つんだっけ」
「聞かせて欲しい? 聞かせて欲しい? 女子高生のドキドキな話、聞かせて欲しい?」
「――ええ」
 ココは今春、鳩鳴館女子高等学校に進学した。沙羅とホクトの通う浅川高校に進学する案も出たのだが、ココ本人の希望により、そう纏まったのだ。ココの考えることだから、良くは分からないけど、優、空、桑古木が大学部に居ることが理由なのではないかと思う。来年になれば沙羅が進学する可能性もあるし、秋香菜も居る。まあ、知り合いの有無に関わらず、ココならすぐに溶け込むとは思うのだけれど。
 ちなみに、この決定に一番、狂喜乱舞したのは桑古木だ。どうやら共学に進むことで、悪い虫が付くことを懸念していたらしい。その際、優が発した、『女子高のノリをナメるんじゃないわよ』の台詞には思わず苦笑してしまったけど。
 ココに限ってそんなことは無い――と信じておこう。
「でね。みゆみゆが言うんだ〜。『ココちゃんには優しいお兄ちゃんが居ていいね〜』だって。でも血が繋がってないって言ったら、『禁断の愛だね』って。ちくしょ〜。照れちまうぜ、こんにゃろ〜」
 成程。これが最近の女子高生が好む話題なのね。今度、沙羅に使ってみようかしら。
「ところでココ。随分と背が伸びたわね」
 枕を背凭れにして身を起こすと、眼前の髪にそっと触れた。淡い色調のそれは、その印象通り、柔らかな感触を与えてくれる。
 ココはキュレイキャリアだ。十八年前、私の血液から精製したティーフブラウ抗体から感染した。彼女のDNAコードは、眠りに就いている間も緩やかではあるが書き換えられ続け、優の概算では、およそ十二年後、二〇二九年の段階で全コードの変換が完了。そして更に五年後、覚醒、現在に至る訳だ。これは武も同じで、私と同じ老いない肉体を持っている。
 だが、ココは成長している。何故か。
 理由は簡単。キャリアは、老化をしないだけの存在なのだ。
 そもそもキュレイウィルスについては今尚、完全に解明された訳ではなく、機構の半分以上が不明瞭と言ってもいい状態らしい。分かっているのは、テロメアを再生すること。驚異的な、回復、身体能力を保有していること。並大抵では死なないことくらいと言ってもいい。だから、キャリアが成長すると言われても、現状での反証は、まず無理だ。
 それともう一つ。私は、キュレイがコードを書き換えてから、全細胞が代謝されるおよそ五年でキュレイ種に成る、と思っていたが、少し違うらしい。ウィルスがコードを書き換える最中も細胞は代謝し、一部の細胞はキャリアの細胞、と変化する。便宜上、キュレイ細胞と呼ぶことにするわね。
 では、感染から二年半後。つまり五年の半分の時が流れた際の肉体はどうなっているのか。ホクトや沙羅のようなサピエンスキュレイ種? 違う。あの二人は、対となる染色体の片方がキュレイで、もう片方がサピエンス種のそれなだけ。この場合、肉体を構築する細胞の半分がキュレイで、もう半分がサピエンスのものなのだ。言い換えれば、老化速度が半分、回復能力もちょうど中間くらいなのかも知れない。
 とすると、感染から五年でキュレイと成るまでに五年分、年を取るというのも改めなくてはいけない。キュレイ細胞への代謝が進むに連れ、肉体の老化は減速する訳で、単純計算で、五年で二年半分しか年を取らないことになる。
 だから、私の四年目、五年目はあくまで成長していただけだと考えられる。なら、今の私の肉体年齢は、成長がほぼ止まる二十歳前後。優は二十一程。武と桑古木も二十歳そこそこでいいのだろう。
 ココも、恐らく二十歳か、その近くで肉体の変化を止めるのだろう。そして、今、ここにいる小さな命も――。
 自分にそう言い聞かせると、そっと、手を当てた。元気に動き回るのには、もう驚かないが、ここに命があるというのは、やはり不思議な感じだ。全ての人は、ここから産まれるというのに、ね。
「つぐみんのお腹、大きいよね〜。ココ、丸くなれば入れそうだよ〜」
「それはちょっと無理かもね」
 爛々と目を輝かせるココに、意地悪な言葉を掛けてみる。彼女もいずれは母親になるのだろう。その様を想像できず苦笑しかけるが、沙羅はもう結婚出来る年齢なのだ。時の流れとやらを実感してしまう。
「ココもママさんになりたいな〜」
「あら。それには先ず相手を見付けないとね」
 私達の命を知って尚、運命を共にしてくれる男はそう多くはない。それにココがその男と箱舟に乗る道を選ぶかも問題な訳で――優しいココにしてみれば、簡単なことでは無いように思える。
「ココにはお兄ちゃんがいるから大丈夫だよ〜」
「――あのね、ココ」
 この娘の場合、意図的なのか天然なのかが分からないことがある。肉体を持たないブリック・ヴィンケルと子を生すということは、誰かを媒体にする訳で、その誰かはホクトに他ならない訳で――息子が惨劇の主役になるのは出来れば遠慮願いたいんだけど。
 この際、倫理面の問題は、さて置くことにしましょう。
「ふう――」
「ふに。つぐみん?」
「何でも無いわ。ちょっと疲れただけ。横にならせて貰うわね」
 言って、再び彼女の髪に触れると、身体を横たえた。意味の無い会話では無かったが、少しはしゃぎ過ぎてしまったらしい。耳を澄ませば鼓動が聞こえてくるほど、私の肉体は昂揚していた。
「つぐみんはママさんだもんね。ココにはこうなるって分かってたよ」
「そっか」
 第三視点がどういうものか、私には良く分からない。過去を見透かし、未来を知る力。言葉にすれば簡単だが、現代の人間が理解出来る範囲を越えている。
 自分の死期を知ることが出来るのか。死した先も見えるのか。産まれる前は――。
 でも、ココに直接、聞こうとは思わないし、優でさえ完全に把握している訳ではないのだ。私達の恩人で、感謝すべき対象――そんな単純な存在として崇めるのも、この場合は悪くないかも知れない。何だか、新興宗教にでも入信しそうな物の考え方と化してるけど。
 そう思って、苦笑してしまった。
「つぐみん、つぐみん。今のこめっちょ、そんなに面白かった?」
「え?」
 現実に引き戻され、間の抜けた声を上げてしまった。
「ごめんなさい、聞いてなかったわ」
「も〜、つぐみん、ちゃんと聞いててよ。『そこで俺はサムソンに言ってやったんだ。サムソン。俺のカミさんの方が、よっぽど悪妻だぞ、って』。にゃははははははははは」
 自分の世界に入ってしまい、笑いこげるココ。
 ごめんね。いくら何でも導入部が分からないと、どうオチたのか分からないわ。
「――ココ」
「うに?」
 何とはなしに、ココを抱き寄せた。横になったまま、右腕だけを使って胸元に。
 格好で言えば、あまり良いものではないのかも知れないけど、彼女の吐息と温もりを感じられればそれでいい。そう思い、ほんの少しだけ腕に力を篭めた。
「つぐみんの胸、柔らかいね〜」
「ココも温かいわよ」
 生命の温もりというのは、何故こうも異質な温かさなのだろう。火のそれとも、赤外線ランプのそれとも違う、心が安らぐ温かさ。
 人が心の奥底に眠らせている、母親という揺り篭の記憶。原点とも言うべきその優しさは、無垢へと還してくれる。お腹の子も、そのことが分かる人間になってくれればと思い、左手で撫で回した。
 途端――扉の開く音がした。不躾な、本来あるべきものを省略させたその音を不快に感じたが、隙間から覗くその瞳に、呆気に取られてしまう。
「そんな――つぐみとココがそんな関係だったなんて!」
 武だった。何だか良く分からないけど、不自然なまでに大袈裟な表情で、私達を見詰めている。
「俺はつぐみを信じてたのに。裏切られた! 十七年目の浮気だ! 家庭内別居だ――って、突っ込めよ!!」
 ――突っ込み?
「ああ、冗談だったの」
 さらりと、返答してやった。乗ってあげても良いのだが、あまり増長されて他の病室に迷惑が掛かるのもまずいだろう。
「あ〜。パパだ〜」
「パパって言うなよ!?」
 脊髄反射並みの間隔で、突っ込みを入れた。恐らく、武のこの習性は、先天的な素質に因るものが大きいのだろう。唯、凄いとは思うのだけれど、これを出来るようになりたいかと問われれば、即決で否定できる自分が居たりする。
「それにしても、これが新婚一年目、出産間近の奥さんへの第一声なの?」
「だったら何か? 『待たせて御免ね、マイスイートハニー。気分はどうだい?』とでも言った方が良かったか?」
「何でそう極端なのよ」
 呆れ返り、嘆息してしまう。
「まあ、そう言うな。退屈してると思って、プレゼントを用意してきてやったぞ」
「笑えない新ネタなんてのは御免よ」
「それよりは幾らかマシかな」
 言って、扉の隙間から顔を出すと、何やら声を掛け始めた。私はその行動に疑問を持ちつつも、何処かで何かを期待していた。
 それは、武と始めて会った時の感覚にも似ていて、とても心地良いものだった。
「ママ〜。会いたかったよ〜」
「お母さん!」
 いきなり病室に入り込んできた二人の子供は、感動の再開を演出しているのか、ベッドに飛び込んでこようとする。だが、すぐさま武が首根っこを掴まえて、押し止めた。気持ちは嬉しいのだが、今に関して言えば、腹部への衝撃は、出来得る限り避けて欲しい。
「ごめんなさい。少し調子に乗ってしまいました」
「む〜。悪かったでござるよ〜」
 あっさりとしおらしくなり、小さくなってしまう。その様は、いたずらをして怒られた子猫にも似ていて、私の心は温かいもので満たされた。
「あれ、ココじゃない」
「久方振りでござるな。鳩鳴館の様子は変わらないでござるか?」
「うん。みんな元気だよ〜」
 一見、微笑ましい会話の様に見えるが、何でもココは沙羅の下に付いている忍者という設定で、鳩鳴館へは情報を入手するために潜り込んだということになっているらしい。
 やっぱり、女子高生の会話って言うのは、奥が深いわね。
「っていう訳で改めて〜」
 そう言うと、沙羅は私の左腕に擦り寄ってきた。そしてそのまま、満面の笑みで頬擦りを開始する。
 川の字になって寝るという表現があるけど、この場合は小の字でいいのかしら。
「あ〜。沙羅、ずるいよ。ぼくも、ぼくも」
「じゃあ、ホクたんはココに捕まればいいよ。それで、たけぴょんはマヨちゃんに」
「幸福の無限連鎖だな」
「物凄い好意的解釈ね」
 嫌いじゃないけど、そういうの。
「ふふ」
 私は小さく微笑むと、ココと沙羅を再び胸元に抱き寄せた。命は、やはり温かい。本当に単純で当たり前のことなのに、忘れてしまっていたのね、私は。
「しかし、良い絵だな〜。美少女三人が抱き合って眠る――これぞ男の浪漫」
「何なら、ホクトと抱き合ってみたら? 途端に女の浪漫を拝めることになるから」
「それもそうだな。良し、我が息子よ。俺の胸の中で眠るがいい」
「お父さん!」
 そう叫ぶと、ガシッと抱き合う、武とホクト。自分で言っておいて何なんだけど、目眩がするのは、気のせいじゃないわよね。
「ココも〜」
「あ、拙者もでござる」
 先ず、近場に居たココが。次いで少し離れていた沙羅が二人に抱き着いた。
 その結果、古典力学で言うところの慣性の法則によって、男達の身体は揺らいでしまう。
「わ、お前ら、ちょっと待て!」
 言葉は虚しく空を薙ぎ、四人は揃って地に伏した。武が全員を庇うようにして下敷きになったのは、流石、最年長者といったところね。
「痛え……」
「これが男の生き様なんだね、お父さん。ぼく、何だか分かった気がするよ」
 瞳を輝かせつつ、自己完結しているホクトが居た。
「ははは」
 不意に、笑いが込み上げてきた。先程のように、慈愛の感情から生まれる微笑みではなく、喜悦から漏れる笑声。私は、生きているのだ。
 生とは決して無価値な存在では無い。死ぬことを許されない原罪を抱えて尚、私はまだ生きている。だが、それでも尚、生きているのだ。
 黄昏は夜明けを待つための布石で、夢は新たな日々を切り裂くための白刃。彼らが居る限り、私は死ねない。死ぬ訳にはいかない。
 何かが矛盾した考えだが、これで良いのだと思う。
 私は、今尚、ここに在るのだから――。

                                      つづく
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