いつからか、私は生に執着しなくなっていた。いつからなのかは、はっきりしない。
 私の生命を継ぐものが産まれた時?
 滅せぬ肉体を持った時?
 生命を賭けるに相応しい目的を達成した時?
 逆に考えれば、これだけの条件が揃っているのだ。生きることに、それほど拘る必要は無いのかも知れない。
 ちなみにこれは悟りでは無い。生きること、死ぬこと、全ての事象を理解することをそう呼ぶのであって、私のは単なる無関心。元来、生物が持ち合わせているべき生への執着は、まるで風化した岩盤のように脆く、崩れてしまっていた。
 だが、私は生きている。死ねないから生きているのでは無く、死ぬことを選択しないから生きている。死ぬことが恐ろしい訳ではないが、だからと言って生を絶つのは癪だし、面白味にも欠ける。だからしばらくは生きてやろうと思う。別に日々がつまらない訳でも無いし、耐え難い苦痛である訳でも無い。
 そう。耐え難い苦痛である訳は無いのだ――。


 西暦二〇三五年四月八日日曜日。
「ほう。で、それが折角の休日の朝七時に人んちに押し掛けてくる理由になんのか?」
 私の双眸を見据えたまま、淡々と言い放つ桑古木涼権という青年。
 十八年前は細身で弱々しい印象しか与えない少年だったのだが、今や、こんなにも立派になって――お姉さん、嬉しい。
「でも、八時じゃ起きてる公算が大きくて面白味に欠けるでしょ?」
 そんな感慨は全く無視して、さらりと言ってのけた。この程度で飲まれるようでは、彼の守り役など、出来るはずも無い。
「ったく。ま、目、覚めちまったからもういい。茶、入れてやるからちょっと待ってな」
「宇治の新茶でお願いね」
「生憎、新茶が出回るのは早くても四月下旬くらいからだから、ちょっとフライングだな」
「言ってみただけよ」
 何故だろう。どうでもいいことに反応してしまう。面白くも無いし、意味も無いのに。何故、私の心は休まらないのだろう。
「ほらよ」
 眼前に差し出される、淡黄と新緑を足したような色の液体。日本人の心と共に生きてきたそれを、私はほんの少しだけ口に含んだ。
 温かく、そして柔らかかった。舌先から口内を包み込んでゆくその様は、まるで極上の布団に身を投じたようで――私の心は、ほんの少しだけ安堵した。
「でだ。さっきの話を繰り返すが、本当に暇潰しだけでここに来たのか?」
「別にいいでしょ。休みだからって、することがある訳でも無し。あ、ココならホクト君や沙羅達と遊びに行くって言ってたから。それとも、ひょっとして他の女に目覚めたとか?
 ああ……だとしたら、お姉さん、嬉しいけど、ちょっと複雑」
「帰れ」
「何よ〜。戸籍上は一応姉弟なんだから、姉貴面してもいいじゃない」
 そう。桑古木と私は、姉、弟の関係にある。十八年前、彼の戸籍を捏造する際、意図的にそうしたのだ。その方が、後見人として、不自然さが少ない。
 ちなみに姓が違うのは、二〇〇八年に夫婦別姓が認められ、例え血の繋がった兄弟姉妹でも姓の選択権が生じたためで、義姉弟であれば、尚のこと必然性が高い。
 まったくもってどうでもいいことだが、この時、私が桑古木の姓を選択した場合、桑古木優美清春香菜となり、全国屈指の特異な名前になってしまう。
 本当に、どうでもいい話ね。
「お前は、することが無いのか? たまの休日、朝早くから、平凡な独身男性の家に押し掛けてきたかと思えば、何をするでもなく、ダラダラと。しかも、出掛けの準備や、ここまでの時間を考えると、どう考えても六時より前には起きてなきゃなんない計算になるぞ」
「ん〜。でも、徹夜とか慣れてるし」
「ひょっとして寝てないのか?」
「いや、九時にはもうぐっすりと」
「小学生か、お前は!? って言うか、何の前振りだったんだよ!」
 怒声にも似た大声が部屋中に響き渡る。木造建築の、年季の入ったアパートだ。隣と言わず、三つくらい向こうの部屋にも届いていることだろう。
「分かったわ。正直に話すから」
「何をだよ?」
「私がここに来た本当の理由」
「期待しないで聞いてやる」
「あのね――」
 私は声のトーンを落とし、神妙な面持ちを作る。そして、小さく息を吸い、心拍数を正常値に近付けた。何とはなしに桑古木を見詰めると、彼もまた尋常ならざる空気を感じ取ったのか、喉を鳴らしていた。
「健全な青少年である以上、あるべきものはあるのかと、抜き打ち調査を――」
「不法侵入者として通報されるか、自主的に退散するか、好きな方を選べ」
「冗談の通じない子ね」
 半ば洒落のつもりだが、隙を見て調べてやろうという気はあったりする。他人のプライバシーに興味が無いなんて、独善的で、偽善的な意見だと思うし。
 それを実行に移すかどうかは、倫理観と良心の問題だとは思うけどね。
「で、実際のところはどうなわけ?」
 あまり意味も無く、この話題を続けてみた。とりあえず、間潰しくらいにはなるだろう。
「あ、ま、まあ、そりゃな」
「歯切れの悪い返答ね」
 思ったより、反応が曖昧だ。視線が宙を泳ぎ、明らかに動揺している。
 十七年間思い続けてきたことだが、桑古木は演技が下手だ。人を騙すのが、本質的に向いていないと言っても過言ではない。そんな彼が、あんな大それた三文芝居を演じきったのだから、苔の一念岩をも砕く、とは良く言ったものだ。
 ま、それはそれでいいとして――。
「ふーん。無い訳では無さそうね。さあ。ココと沙羅にばらされたくなかったら、今すぐ出しなさい!」
「何だよ、その組み合わせ」
「下手をすれば、世界中に知られかねない二人」
「嫌すぎるな、それは」
 天真爛漫で、誰とでもすぐ打ち解けるココと、知人の私事をネット配信することに凝っている沙羅。桑古木がココに好意を持っているのを差し引いても、弱みは握られたく無い。
「空っていうのも面白いわよ。彼女、優しいから、何事も無かったかのように接してくれるでしょうね」
「ごめんなさい。少しあなたのことを侮っていました」
 何故か突然、敬語になった。それが妙に面白かったので、私は彼を苛めるのをやめてあげることにした。
「はぁ――」
 不意に、溜め息が漏れた。理由があるとは思えない。今の今まで、バカ話をしているのは楽しかったし、悩み事は無いはずなのだ。
 そりゃあ、人間として生きている以上、細々とした問題はあるに決まっているのだが、去年までのことを考えれば、些事と言っても差し支えないものだ。
「いきなり、どうした? 幸せが逃げてくぞ」
「溜め息を吐く度、一つ無くなるってやつ? その理論で行くと、幸せっていうのは減点式なの? 一人につき、人生にプールされてる幸福の量が一定とすると、私達キャリアはあっという間に使い果たして、不幸で一杯の余生を送ることになるわね」
「言ってて、アホらしいとは思わんか?」
「思う」
 折り畳み式のテーブルに突っ伏したまま、無気力に返答した。何故だろう。楽しい時間を過ごせたはずなのに、自分でそれを壊している。
 私はそんな自分をやるせないと思うでもなく――何とはなしに視線をさ迷わせていた。
「ねえ。桑古木――」
「今度は何だ?」
「退屈だって言ったら、不謹慎かな?」
 我ながら情けない声だと思う。猫撫で声とも、掠れ声ともとれる力無い声。心許せる相手にだけ見せられる、もう一人の私。桑古木涼権は、そんな数少ない一人だ。
「まあ、九時寝五時起きは、並の暇人に出来る芸当では無いな」
「ふふふ。私立とはいえ、無気力全開の実力派教授をナメるんじゃないわよ」
「一体お前は、何に対して虚勢を張ってるんだ?」
「さあ?」
 何となく論理的に話を進められるのが嫌だっただけで、今の返答に意味があった訳ではない。一昔前のつぐみであれば、鼻で笑うか、呆れるかのどちらかであろう。
「あんたはどうなの? 私の手伝いみたいなことしかやってなくて、ヒマしてない?」
「ほう。目測三センチはあろうかという書類を『ごめん。昼休みまでに処理しといて』だの、午後二時半過ぎ、慌てて銀行に行こうとする俺を呼び止めたかと思えば、学会用のコピーを要求されるような状態が暇だと言いたいわけだな」
「でもこの状況、楽しんでるじゃない」
「誰がだよ!?」
「それに、こんな美人に使役したい輩はいくらでも居るのよ。言うなればカマキリやマンボウが成体になる程の倍率を突破したトップエリートね」
「外見二十歳そこそこの若作り教授に顎で使われるのが有能な証だなんて、半世紀前の学生や官僚に聞かせてやりたいな」
「あら。価値観は時代と共に変化するのよ。特に、この四、五十年の多様化は著しい速度でしょ」
「まあ、そこは同意しておく」
「あら。随分と素直ね」
 意外にもあっさり返答され、間の抜けた声を上げてしまった。
「でなきゃ、十七年もの時間を掛けて、誰かのために尽くそうなんて思わないもんな」
「――たしかに」
 思わず苦笑してしまったが、別に昔の人が一途ではなかったと言いたいわけではない。
 唯、私達の場合、日々を積み重ねていくうちに十七年が過ぎ去ったのではなく、始めから十七年と決まっていたのだ。山頂が見えないよりは楽なような気もするが、それでも気が遠くなる時間であったことに変わりはない。
 何とはなしに、今までのことを思い出してみた。
「そう言えば、こんなにゆっくり計画中のこと、思い出したこと無かったかも。
 もう一年も経つって言うのに」
「まだ一年だろ」
「かもね」
 私達が身を投じた、狂気と呼んでも差し支えない、第三視点保有者発現計画。そのために強いられた緊張は精神を圧迫し、いつしかそれを日常と化し――元の状態まで解きほぐされるのには、どれほどの時間が必要なのだろう。
 或いは、同じ時を以ってしか相殺されないのかもしれない。そう考えると、少し気が遠くなる気がした。
「いつか笑い話に出来る日が来るのかな?」
「有り得ない話じゃないだろ。何しろ、俺らはいつまで生きるか分からないわけだしな」
「そうだったわね」
 生とは何なのだろう。生が死と対の存在なのだとしたら、死ねないモノは生きていると言えるのだろうか。
 どこかのバカは、人は恋をするために産まれてくると言った。では、恋をして、その心を偽り続けることは、生を冒涜していることにならないのだろうか。
 十八年もの長きに渡り、想うことさえ封印してきた思考が頭を掠めた。
 ダメだ。考えてはいけない。今に不満は無い。毎日はそれなりに楽しいし、誰もが幸せなのだ。私が壊してしまうわけにはいかない。
「優?」
 思索に耽る私を気遣う声がした。
 だが、今の私にとって、その優しさはあまりに鋭く――感情は堰を切り、濁流と化した。
「――涼権」
 自分でも驚くほど滑らかに、その名を口にした。瞳から零れ出てくる想いを、必死で堪えようとする度、胸が詰まり、ついには抑え切れなくなってしまう。
 まるで、自分が少女に還ってしまったかの様な気恥ずかしさが胸に満ちていた。でも、そのことはとても自然なのだとも思えていた。
 私は、一度だけ躊躇したものの、流れるように彼の胸へと飛び込んでいた。最も信頼する相棒にして、理解者たる弟。
 私にとっては、恋をするのと等価な程、掛け替えの無い存在なのだ。
「何だよ。いつも偉そうなこと言っておいて、失恋したくらいで泣き出すのかよ」
「だって……だって……」
 視界が涙で歪み、洟で息が苦しくなるほど、感情の制御が効かなかった。
 私は何がしたかったのだろう。こんな悲しい思いをするために頑張ってきたわけじゃない。そんなことは分かっていた。唯、助けたかった。私にしか出来なかった。だから頑張れた。彼にとって唯一の存在になれなくても、掛け替えの無い存在にはなれたはずだから。
 でも、でも――。
「うっ……うっ……」
 定期的に押し寄せる感情の波が襲う度、私は赤子の様に泣きじゃくった。
 そんな私に、涼権は声を掛けるわけでもなく、唯、優しく包み込んでくれた。人の温もりを、これほど愛おしく思えたのは本当に久し振りだった。もしかすると、私の生命の分身を得て以来のことかも知れない。

 そして理解した。気取ったように生を放棄していた訳を。
 私は、逃げていたのだ。生きること、恋すること、人を愛すること、全てにおいて。
 目を背け、何も考えずに日々を送ることが、一番楽で、何も感じずに済んだから。
 でも、私は覚えてしまった。ココロが此処に在ることを。私は生きていることを。真っ直ぐに見詰めたい自分自身が居ることを。

 私はこの日、十八年もの長きに渡る眠りから目を覚ましたのだと実感した。
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