人は、何故恋をするのでしょうか?
 あの方はおっしゃいました。人は恋をするために産まれてくるのだと。即ち、恋をすることとは生きることそのものであるともとれます。
 では、私は恋をしていたのでしょうか?
 もう一つのYの先端において、私は悲劇的な結末を迎えました。ですが、その世界の私は確かに恋をしていました。人として生きていると言えました。それは本当に価値の無いことなのでしょうか――。

 私は今、人に限りなく近い存在です。つまらないことに腹を立て、時には笑い合い、程よく物を忘れることもあります。そして、触れ合うことで他人との繋がりを感じる、そんな、何処にでも居る、一人の女性として生きています。
 しかし、人の本質はそこにあるのでしょうか。人が人としての存在を他者との関わりで得られるものなのであれば、『見られる』ことによってのみ存在していた以前の私も人だったのでは無いでしょうか。人と、人に非ざるものの境目は何処に在るというのでしょうか。

 どなたか、答えを下さい――。


 西暦二○三五年四月七日土曜日。
 私は、夢を見ていました。正確に言うのであれば、情報ファイルの整理作業。人の見る『夢』も、これと同様の目的のために行われると言います。
 内容はとても陳腐なもの。私と、私の最愛の人が結ばれることによって生じる、過不足無い世界。誰もが幸せであり、満たされている存在し得ない世界。
 そんな夢を見ていました。
 ですが、目覚めの時に感じたものは、内容に相応しい清々しさではなく、心が空っぽになってしまったかのような絶望でした。
 一人は、辛いです――。
 コンコン。ノックの音がしました。私は慌てて身を起こすと、鏡を覗き込み、身だしなみを整えます。最高のおめかしという訳にはいきませんが、ちょっとした来客であればこの程度でも問題は無いでしょう。小走りに玄関口に駆け寄ると、覗き穴から外を見遣ります。
「……え?」
 頓狂な声を上げてしまいました。単純に、私にとってその事象は想定外で――訳が分からず、一瞬呆けてしまいます。ですが、すぐさま気を取り直すと、電子錠、並びにチェーンを解除し、扉を開け放ちました。
「よ、空。悪いな、突然」
 倉成武さんでした。


「いや〜。つぐみのとこ行くつもりだったんだが、急に雨が、な」
 濡れた黒髪をバスタオルで拭いつつ、言葉を掛けてきます。薄手のシャツも湿り気を帯び、地肌がうっすら透けています。私は思わず、視線を逸らしてしまいました。
「く、倉成さん。そのままでは身体にあまり宜しくないのでは?」
「そりゃそうなんだが……男物なんか無いだろ。ココならどっちでもいけるの持ってるかも知れんが、サイズが合わないだろうし……」
 あの事件の後、私はココちゃんと一緒に暮らし始めました。理由は幾つかあるのですが、最大のそれは田中さんの一声でした。
『あんたら、電波同士だし、気が合うでしょ』
 電波がどういう意味なのかについては未だに謎です。
「あ、それなら大丈夫です。この前、田中さんが宴会芸で男装した時の服がありますから」
「あいつは何をしてるんだ……」
 男装と言っても、某歌劇団の様に煌びやかなものでは無く、長袖のワイシャツに黒ズボン程度のものです。田中さんには若干大き目だったと思うので、着れないことも無いでしょう。流石に下着まではありませんが、それは我慢して頂きましょう。
「下着……?」
 下世話な想像をしてしまい、顔が熱くなってしまいました。
「ほんじゃ、遠慮無く借りるな。優には宜しく言っておいてくれ」
 そう言って、洗面所に入られました。耳をそばだてると衣擦れの音が聞こえてきて、再び首から上が熱くなるのを感じてしまいました。
 次いで、扉の開く音と、雨音にも似たシャワー音。思わず中での映像を、複数のファイルを用いて構成してしまいました。私は慌てて首を振り、何事も無かったかのように、ソファへ腰を降ろします。
「あの様子では、この前のことは――」
 今から五日前、つぐみさんと交わした会話のことは存じ上げ無いようです。
 直情的な感情が引き起こした行動。だけど、私の偽らざる本音。一つのモノしか見えないが故に、他の全てを壊すことを厭わない、好きになれない自分自信。しかし、それを全て理解した上で消せない想い。
 非論理的過ぎて笑ってしまいそうです。何故、こんなにまで理不尽なのでしょう。消してしまえれば楽になれるのにとも――。
「ふう……さっぱりした」
 湯上がりの上気した表情。再び見惚れてしまいそうですが、取り繕い、台所へと足を向けます。
「倉成さん。何をお飲みになりますか? 一応、一通りはあると思うのですが」
「そうだな。紅茶はあるか?」
「はい。しかし珍しいですね。私の記憶では、倉成さんが紅茶を飲んでおられるのは、ほとんどお見受けしたことがありませんが」
「ちょっと優の奴に感化されてな。違いの分かる男になってやる」
「たしかに凝っておられますよね。何でもとある少年に認められたいとか」
「何だ? あいつ、ついに身を固めるのか?」
 意識しているのか、いないのか。罪な台詞を吐きます。
 私は動揺する心を抑えつつ、若干冷ましたお湯をティーポットに注ぎ、蒸らしました。その間、私達に言葉は無く――何とはなしに、落ち着きを失ってしまいました。
「はい、どうぞ」
「お、サンキューな」
 西洋式の作法通り、右手側から差し出したことに、恐らくは気付いていないでしょう。ですがその姿はとても彼らしく――私は思わず微笑みを浮かべてしまいました。
「ぬ? この軽やかな風味と濃厚さ……セカンドフラッシュだな!?」
「セイロンティーですよ」
 ちなみにセカンドフラッシュというのは、ダージリンのうち、5〜6月に摘まれる紅茶のことで、最高級のものの一つとして知られています。私の出したセイロンティーも、それなりに良い物で、質的にそう劣りはしないでしょうが、風味は大分違います。
 これもまた、彼らしさなのでしょうか。
「だぁ〜。分からん!! 分かるのは、旨いってことだけだ」
「それで充分だと思いますよ」
 僅かな風味や香り、又は色や口当たりの違いを比べるのも一つの楽しみ方ですが、もっと動物的に、良いか、そうで無いかというのも悪くはありません。
 要は、誰と楽しむかですから。
「それで、最近どうだ?」
「変わりありません。田中さんのお手伝いと事務職。やることは多いのですが、少し退屈かも知れませんね」
「……えらく、人間的な意見だな」
「私は人間ですよ」
「……だったな」
 目を合わせ、微笑み合いました。お互い、人外の存在と言えるモノなのに、です。
「雨、か――」
 不意に、倉成さんが外を見遣りました。窓越しに見える風景は僅かに澱んだ灰色で――無数に降り注ぐ雫が視界を歪ませます。何故だか、少し胸を締め付けられてしまいました。
「そういや、ホクトの友人――後輩だったか? 名前は忘れたが、面白いこと言っててな」
「何でしょう?」
「雨。母なる海を産み出した始原の祖。そしてその母より産まれ出た子供達。我々と同じ存在。
 雨。海より産まれ、大地に染み込み、年月を経ても又、海へと還る。その様は輪廻転生を繰り返し、流転を続ける我々を模しているのか、或いは我々が模しているのか――」
「哲学的、ですね。ホクトさんの後輩ということは、十五、六歳――」
「その時は世の中にゃ、妙な奴も居るなと思ったんだが……色々と考えさせられるだろ?」
「ええ……」
 生命が輪廻の中で永遠に周り続ける存在なのだとしたら――私達は一体何なのでしょう。
 生命の継承者としてこの世に生を受けたのにも関わらず、全てを堰き止めてしまうキャリア。人間に限りなく近い思考、感情、感性を持つものの、無より産まれ、無へと還る運命にある私――本当に奇異な存在です。
「ま、お互い生きてるってことに変わりはないんだがな」
「同感です」
 突き詰めれば、それが一番大切なことなのですから。
「しっかし旨いな、この中国茶」
「ええ、そうですね」
「……」
「……?」
「う、腕を上げたな」
 何の話でしょう?


「それじゃ、そろそろ失礼するな。雨も弱まってきたし、服も乾いただろ」
 倉成さんは私に軽く目配せすると、洗面所に足を向けました。
 私の心は、言い様の無い不安にも似た感情で満たされます。こうなることは分かっていたはずなのに。彼の帰るべき場所はここでは無いのに。何故、この様な気持ちになってしまうのでしょう。
「この想いを切り捨てることが出来れば、楽になれるのに――」
 叶うはずの無い言葉を呟いてしまいます。
「ありがとな、空。付き合ってくれて」
「いえ、私も今日はすることがありませんでしたから」
 偽りの微笑みを浮かべ、冷静を装います。
 玄関先で、軽くつま先を叩き付けて、靴の具合を整える彼。この時間は、あとものの数十秒で終わってしまうのでしょう。
 嫌です! 私は――私は彼と永遠を共有したい!!
「倉成さん!」
 衝動的に抱き付くと、その名を口にしました。見掛けよりも若干厚めの胸板。男性特有の少し野暮ったい香り。服越しに感じる、彼の温かさ。私は、その全てを自身の手に収めたくて、両の腕に力を篭めました。
 許されざる領域。全てを壊してしまいかねない行動。様々な想いが頭の中を駆け巡ります。だけど、今だけは――。
「倉成さん! 私は……私は!!」
 涙目になったまま、顔を上げました。全てを拒絶される恐怖感と、彼の持つ全てを許容する優しさ。巨大な心の欠片が、胸の中を覆い尽くしました。
「空――」
 彼の口が開きました。私の世界は、あまりに大きい自分の鼓動と、その口元だけに支配されます。
「――」
 その瞬間、私は空と化しました。
 時としてその青さで世界を覆い尽くす『空』では無く、何も存在しない状態である『空』。
 いえ――元の存在へ還ったと言うべきでしょうか。
 私は、元々無より産まれし存在なのですから――。


 人は、何故恋をするのでしょうか?
 そして、何故恋をしてしまったのでしょうか?

 どなたか、答えを下さい――。

                                 つづく
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