西暦二○三五年四月二日月曜日。
 病院のベッドは嫌いだ。八年もの長きに渡り私を束縛し続けた、鉄格子無き座敷牢。
 無機質なデザインに硬いスプリング。新しい生命を送り出す為とはいえ、ここに寝そべり続けるのは、やはり苦痛だった。
 でも、代替のものを用意してもらいたくはなかった。特別な肉体を持つ私だ。ここに入院する為、優には色々骨を折ってもらっている。これ以上、我が侭を言いたくなかった。
「……?」
 不意に、気配を感じた。深夜、とまでは行かなくても、消灯時間は差し迫っている。もちろん面会時間は過ぎているから、看護師かしら……。
 だが、ノックもせず入室してきたその人物を、私は良く見知っていた。
 淡い色の髪を腰まで伸ばした、理知的な顔立ちの女性。いつもであれば、笑みを絶やさない彼女であるが、今の表情はあまりに複雑で、幾つもの感情を読み取ることが出来る。
 焦燥、怒り、嫌悪、悲しみ、やるせなさ、悔しさ――それが、誰に向けられているのかは分からない。私に対してなのか、それとも自分自分になのか。
「……夜分に失礼します。倉成、つぐみさん」
 茜ヶ崎空、その人だった。


「規則にはうるさいあなたにしては珍しいこともあるのね、LM-RSDS4913A」
「皮肉ですか?」
「皮肉はあなたが先でしょう? 私を今の姓で呼ぶなんて始めてのことよ」
 空は、私と武が籍を入れた後も『小町さん』と呼び続けてきた。差別化と好意的に取ることも出来るが、言い訳にしか思えない。もしそうであれば、沙羅やホクトと同じく、名で呼べばいいだけの話なのだから。
「まあ、それはそれでいいとして何の用? 誕生日を祝いにきてもらった様には思えないけど」
「あなたの全てを壊しにきました」
「……」
 私の全てを壊す?
 意味も無く、反芻した。
「笑えない冗談ね。師匠が武だから仕方ないけど」
「私は本気です」
 じっと見据えられ、言葉に詰まってしまう。つい最近まで私につきまとっていた緊張感が蘇り、思わず身震いしてしまう。
「……何のために?」
 意味の無い質問だと自覚していた。
「あなたが憎いからです」
 明瞭だと思えた。あまりに単純な原則論。人が人であるために必要不可欠な感情。かつて私の心を満たしていたモノ。
 ふと私は、空が人間であると認めていることに気付き、小さく苦笑してしまう。
「何がおかしいのですか」
「あなたは素晴らしい存在よね」
「バカにしているのですか」
 そうとられてしまっても仕方ないのかもしれない。しかし私は、素直にそう思っていた。
「空……私はあなたが好きよ。作られた疑似人格ではなく、一人の人間として――」
 これが、精一杯の誠意に思えた。何も飾らず、ありのままの想いを伝えること。
 だが――。
「ふざけないでください!!」
 怒号にも似た大声が室内に響き渡った。誰かが駆け付けてしまうのではないかと、ヒヤヒヤしてしまう。
「あなたは……卑怯です!!」
「卑怯? 私が?」
 オウム返しに問い返し、罪悪感が心を縛り付けた。私は私が卑怯であることを自覚している。完全なる勝者の論理。一連の言葉は、上から見ているから吐けたものだ。
 だが――。
「武は渡さないわよ。私にとって、あなたより大切な存在だから――」
 自信を持って言い切ることが出来る。空には優同様、様々な借りがある。そのことは否定し得ない事実だ。
 でも、私には武と三人の子供以上のものは存在しない。それだけが私の生きる糧であり、道標だったのだ。
 積み上げてきた時間をどうこう言うつもりは無い。想い続けてきたのは彼女も同様であり、比べることは無意味だからだ。私は純粋に武を欲しており、譲りたくない。唯、それだけだ。
 私は無言のまま立ち上がると、きっと彼女を睨み付けた。
「私とこの子を傷つけるって言うんなら、空。あなたと言えども容赦はしないわよ」
 喩えるのであれば、野生動物の威嚇。咆哮をあげる訳でも、毛を逆立てる訳でもないけど、それが最も的確だと思う。
 私は逃げない。あんな想いは、もう二度としたくないから。
「……恐ろしい瞳ですね。まるで、鋭利な刃物の様です」
 空の言葉が心に響く。こんな攻撃的になるなんて、武に再会してからは無かったことなのだ。
「ですが、その刃は全てを傷つけるのではないですか? 自分自身も。自身の子供も。そして、あの人も――」
「!!」
 最も触れられたくない部分を突かれ、精神が毛羽立った。口の中が乾き、全身の震えが止まらない。自分でも、何が何だか分からなくなっていた。
「あなたに――」
 濁流の如く溢れる言葉を、堰は受け止めてくれなかった。
「あなたに何が分かるっていうのよ!! 子供も産めないあなたに!!」
「――!!」
 ある意味において、禁句だったのかも知れない。犯されざる神聖領域、或いは禁忌である悪魔との契約。どちらにせよ、私達が決して触れようとしてこなかった部分であった。
 口にした後に、昂ぶった激情と同程度の自責の念が涌き上がり、私の心を押し潰した。
「……やはりあなたは刃なのですね。それも、触れるもの全てを切り裂く、極上にして抜き身の」
 何も返すことは出来なかった。
「今日は帰らせて頂きます。貴方という存在を確認できましたから――」
 言葉だけを残し、扉を閉めた。
 その場に残された私は、全身を震わせ、膝を付き、唯、自身の身体を強く抱き締めることしか出来なかった。


 西暦二○三五年四月三日火曜日。
 私は、天井を見上げていた。何をするでもなく、唯、大の字になり、虚ろな瞳のまま。
 筋肉は弛緩し、自分のものではないのでは無いのかと思えるほど虚脱感に満ちていた。
 今、横には武が居る。もう少しすれば二人もやってくるかもしれない。しかし、そのことは何の気休めにも、いや、むしろその事実が私を苦しめていた。
『私は刃――触れるもの全てを傷つける、極上にして抜き身の』
 空の言葉を反芻する。
 今にして思えば、私の生きてきた道だ。始めはチャミを。次いで武を、優を、ココを、桑古木を――。存在を変質させてしまった。
 あの二人だって私のせいで――。
 感情論だと理解していた。何の整合性も無い、心の欠片の暴走。でも、私が居なければ、別の形があったのではないか。もう一つのYの先端。私が居ないことで成り立つ、過不足無い、完全なる調和。
 ――バカみたい。
「……ねえ、武」
「何だ?」
 声を聞くと安心できた。でも、それと同じくらい心を締め付けられた。
「私のこと、愛してる?」
 意味の無い問いだ。私は、何を求めているのだろうか。
「愛してるぞ。合わせて言うなら、沙羅も、ホクトも、その子も同じくらいな。俺にとって、お前ら以上のもんは存在しないからな」
「御両親は?」
「生憎、僅差で次点だ。これは生物学的に正しい。と言っても勘違いするなよ。親父やお袋を犠牲にしてでもお前達を護るって意味じゃないからな。そういう状況になったときゃ、全員が生きる道を探す」
「私達、生態系の和を外れた存在なのに生物学を持ち出すとは思わなかったわ」
「そりゃあれだ。人間そのものが異端だからしょうがないな」
「……かもね」
 バカバカしく、意味の無い会話。気が紛れると言うよりは、私にとってこれが自然なのか。全身を張り巡っていたものが、少し解れた気がした。
「長弓背負いし 月の精」
 何とはなしに、口ずさんでみた。私とあの子達を繋ぐ心の架け橋。この子にとっても、そうなるのだろうか。
「その唄――そう言えば、帰ってきてからは唄って無いな」
「……そうだっけ?」
 武がこちらに戻ってきたのが、去年の五月。新たな命を宿したと知ったのが九月。思い出せる限りの記憶を呼び起こしてみるが、口にした記憶はたしかに無い。
 又、唄だけを残して消えるのを恐れていたのだろうか。
「夢の中より 待ちをりぬ」
 不意に、武が続きを唄い始めた。私は驚きで顔を顰めたが、すぐさま微笑みを浮かべると、重唱する。
「今宵やなぐゐ 月夜見囃子」
「早く来んかと 待ちをりぬ」
「眠りたまふ ぬくと丸みて」
「眠りたまふ 母に抱かれて」
「真櫂掲げし 水の精」
「夢の中より 待ちをりぬ」
「今宵とりふね うずまき鬼」
「早く来んかと 待ちをりぬ」
「眠りたまふ ゆるゆる揺られ」
「眠りたまふ 海に抱かれて」


 私は月にして海。いずれも、母たるもの。
 ならば、今、この一時だけは自身を忘れよう。
 この温もりを胸に、唯、一人の母親として――。


                         つづく
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