古来より、言葉には力が宿ると言われている。それは洋の東西を問わず、言霊や陰陽道における呪文の類として、脈々と受け継がれている。
 現実的な問題として、言葉そのものに自然を操作したり、或いは遠く離れた人に危害を加える能力があるかどうかについては疑問が残るが、少なくても人が生きる道標としての力は十二分にあるはずだ。言葉は、人と人とが関わる上で、一つの大きな手段なのだから。
 しかし、言葉は時としてあまりに無力で、また、何の意味も成さない。少なくても私はそう信じていたし、今尚、それを否定できない部分は持ち合わせている。私が得たのは、人生において、無駄に思えることにこそ価値があるという考えであって、意味の無い会話自体は減っていないと思う。
 でも、意味が無い、何の価値も無い言葉が支えになることもある。果たされるはずの無い約束は、例え相手が真摯に守り続けたとしても、当人にとっては陽炎のようなものだ。そこに見えてはいる。だけど、存在はしていない。虚像に縋りつく行為は、傍から見れば、無価値だ。本人にしても、それが幻であることは分かっている。それでも、生きていくためには、何かが必要なのだ。それが、人という生き物だから。
 しかし、この世の理を統べる存在、俗に言うところの神様とやらは、時にそんなあやふやなモノに実体を与えてしまう。それを奇跡と呼ぶか、気まぐれと呼ぶかは価値観に左右されるのだろう。
 私の場合? 私にとっては、どちらでも良い。元より現実主義者で、恐らくその性分は一生涯直らないだろう。仮に神と呼べる存在が実在しているにせよ、それはひどく気分屋で、不公平なのだと思っている。だから、今、目の前にあることを甘受すれば良い。
 私は、言葉によって生かされたのだから。


 西暦二〇三五年四月二十八日土曜日。
 何かが、不自然だった。具体的に、何がどのようにと問われると困るのだけれど、とにかく違和が存在していた。
 私たちが交わす言葉の端々には、何の淀みも無い。視線を逸らす訳でもない。いつもと変わらない、バカバカしい、何の意味も無い言の葉の遣り取り。生きていく上で、最も無価値にして、最も生を実感できる瞬間だ。
 しかし、今、何処かに僅かばかりの曇りを生じさせていた。それはまるで、真水に砂糖水を垂らした時の揺らぎにも似ていて、同時に、私の心にも少なからず動揺を与えていた。
 それが、何時からかと問われれば明確な解を導くことが出来る。昨夜、彼が隣室から戻ってきてからだ。時刻で言うのであれば、深夜に差し掛かる少し前程。懇意にしている看護師に、彼女が運び込まれてきたことを聞いたのだ。とりあえず大事には至ってないということなので、武に様子を見させて、私は一心地ついていた。宵闇の中、一人で居るという行為に抵抗はあったのだが、何故だか足を向ける気にはなれなかったのだ。理由は、分からない。
「ねえ、武」
「何だ?」
「昨夜、何かあった?」
 単刀直入に聞いてみた。優がちょっとした過労で倒れたというのは武から伝えられたものだ。臨月に入って久しい私を気遣っている可能性が無いとは言い切れない。もちろん、キャリアである私達にその類の脅威が極端に少ないというのもまた事実なんだけどね。
「何でそんなことを聞くんだ?」
 曖昧な返答だった。武は、嘘をつかない。語りたくないことがあれば、お茶を濁すタイプだ。だから、今の様な反応は、誤魔化そうとしているようだとも取れてしまう。もちろん、考え過ぎかも知れないし、下手な邪推というのもあまり気分が良いものではない。
「別に。妻として夫が一人、女性の部屋へ行くのに焼き餅を妬くのは悪いこと?」
 自分でも、軽薄な台詞だと思った。昔の私であれば、絶対、口にはしていない。
 つくづく色々と変わってしまったものだと、妙なところで感心してしまった。
「――なあ、つぐみ」
 唐突な言葉だった。話の脈絡からしてみれば、そう不自然な呼び掛けでは無いのだが、何故だかそう思えた。それは微妙な口調の変化故なのか、或いは――。
 様々な憶測が泡の様に浮かんでは消えた。
「人ってのは生来、罪人って考えは変わってないか?」
 意味が分からなかった。そりゃまあ、十八年前、私は間違い無くそんなことを言ったし、今も尚、そんな思想を持っていないわけではない。
 人は、欲深く醜い。私も、武も、そして恐らく子供達も。清廉潔白に生きるのが難しいのではなく、生きることそのものが咎であり業なのだ。他者の命を食らうことでのみ生を持続し、生を受け継ぐため淫らに交わり、堕落の象徴として惰眠を貪る。深く考えるまでも無く、命は汚れている。
 だけど、そんな命だからこそ限りなく美しいというのもまた事実であり――私の心の奥底に眠っていたその感情を目覚めさせてくれたのは武だったはずだ。何故、今更そんなことを口にしたのだろうか。
「変わってないわよ。私も、武も、未来永劫、自身を汚し続けて生きてゆく。生きている限り生き続けるって言うのは、そういうことでしょ?」
 ややもすると皮肉にも取られてしまう言動だ。でも、彼が求めている答だと思った。だからこそ私は彼の瞳を見据えて、ゆっくりと言葉を口にしていた。
「犯した罪は消せない、ってことだよな?」
「……」
 何を問いたいのだろうか。二十年前、優が犯した大罪か、或いは、十八年前の事件のことか。いずれにせよ、人が生き続けたいと願うのは、至極当然の摂理だ。それを責め、裁くことなんか出来ようはずも無い。
「どうってこと無いわよ。鳥獣や植物を食べるのと何が違うの? 何も侵さず、そして汚さずに生きていくなんて出来やしない。果物だけ食べていくって言ったって、無数の微生物は犠牲にしてるわけなんだから」
「――そうだな」
 反応が、不鮮明だ。結局のところ、何が言いたかったのだろうか。私の言葉は、ちゃんと彼の心に届いたのだろうか。それもまた、不明瞭だった。
「武?」
 何とはなしに、彼の名を呼びたくなった。こうでもしないと、彼が倉成武であることさえ忘れてしまいそうだったから。
「いや、何でもない。忘れてくれ」
 釈然としなかった。まるでその奥底に僅かばかりの澱みが生じたかのように、心が不安定に揺らめいた。
 でも、深くは問おうとも思わなかった。武のことだ。どうせまた、どうしようもないことで悩んでいるに違いない。例えば、風で揺らめいた女性のスカートを凝視するのは罪かとか、それとも、食べ放題のお店に行った時、限界を越えて胃袋に詰め込むのはどうかとか、その程度のことだろう。
 真面目に考えれば考える程バカを見るのが倉成武という男だ。まあ、それはそれで楽しいのだが、人間やっぱり程々が一番だ。この話題はここで終えておくのが無難と言うものだろう。
「じゃあ武。下らない話題に付き合った対価を要求するわ」
「な、何だよ?」
 表情を一転させ、まるで狩られる寸前の小動物のように怯え出した。
 そんな顔をされると、まるで私が尻に敷いているように見えるんだけど。
「名前よ、名前。いい加減、候補くらい決めましょうよ」
「ああ、そのことか」
「そのことかって」
 今更ながら、沙羅もホクトも私が付けた名前では無い。だけどあの子達はその名前で十年以上を過ごして来た訳で、それが耐え難い日々であったとしても、生きてきた道の一部なのだ。だから、私は二人を沙羅、ホクトと呼ぶ覚悟を決めた。名前なんて個人を認識する以外の意味を持たないなんて意見もあるけど、私の考えは違う。名は、その人自身の一部であり、安易に切り捨ててはいけないもの。元服によって名が変わるのは成人した証だし、或いは忌み名の様に本当の名前は他人に知られてはいけないという風習もある。私の都合で一度名前が変わってしまったあの子達を元の名に戻すのは我侭というものだ。
 だからこそ、この子には一つの名で生き続けて欲しいと願っていた。目一杯の想いを籠め、どんな時も共に生きることが出来る名前を。
 それなのに武と来たら、まるで犬や兎にでも名前を付ける感覚なのか、軽々しい発言を口にしては私の怒りを買っている。
 一番安直だったのは、武道の武に大海原の海で『たけみ』。字にすると『武海』。理由その一、男でも女でも使える名前だから。理由その二、私達の字が一字づつ入っているから。以上。
 そりゃ、そんな名前の付け方もあるでしょうけど、あまりの短絡思考に呆れてしまったのを良く覚えている。それに『倉成武海』というのは字としてあまり良いものでは無いように思えるし。『倉成沙羅』や『倉成月海』が良いかについては、この際議論を避けるけど。
「分かった、分かった。菜っ葉の菜に戒めると書いて『かいな』っていうのはどうだ?」
 言いながら、手元のメモ帳にボールペンを走らせた。そして私の前に突き出された熟語は『戒菜』。倉成戒菜?
「その心は?」
「半疑問系で、『倉成かいな?』と呼ばれると面白い」
「……」
「俺としては、本間姓の家に嫁いでもらって『ほんまかいな』になる日をだな――」
 そこまで口にしたところで、武の顔が歪んだ。それもそのはず。私が右手人差し指と中指を極めたのだ。この際、護身術に関して素人である武に、関節の重要性というのを知ってもらうというのも悪くない。
「ぐが――ちょ、ちょっと待て! マジで折れるって!」
「大丈夫よ。半日もあればくっつくから」
 実体験に基づき、具体的な数字を提示してあげる。この冷淡さが恐怖の感情を煽るということは、先刻承知だ。
「――ふう」
 諦めの感情と共に息を吐き出すと、拘束を解いてあげた。そうだ。武はこういう人なのだ。どんな状況に於いても自分を見失わない代わりに、どんな状況に於いても自分を捨てない。良きにつけ、悪きにつけ自分だけの道を走ることが出来る。もちろん、そこが魅力な訳だけど、全てを相手にしてるとこっちが自分を見失ってしまうのも事実だ。
 そのことを再認識し、私は再び嘆息してしまった。
「何だよ。幸せが逃げてくぞ」
「溜め息と一緒に幸せが逃げてくって奴? だったら武がその幸せを受け止めてくれればいいでしょ。そしてそれを倍にして私に返してくれれば、何の問題も無いわ」
 さらりと、無理難題を吹っ掛けてやる。だけど、本音でもある。
 武はこの前、幸福の無限連鎖と口にしたが、人を介するたびに少しでも増幅されれば、指数関数的に増大し、瞬く間に世界は幸せで満ち溢れる。
 理想論だけど、思想としては悪くない。せめて愛するもの同士の間だけでも、そんな夢を持っても良いだろう。
 少なくても、自分の信じる神様以外は存在自体を認めない狭量な宗教家よりは大分マシだと思う。
「それはそれとして、私の案を聞いてくれる?」
「ん? ちょっと待て。俺ももう一つ」
 言って、紙片を一枚剥ぎ取ると、再びペンを走らせている。また下らないことを思い付いたのかと、溜め息を吐きかけるが、こちらを先に書いてしまおうと、右手に僅かばかりの力を籠めた。
「はい、書けたわよ」
「んじゃ、せーので一緒に言うぞ」
 まるで、十代の恋人同士であるかのように、さらりと言ってのけてくれた。
 武の辞書に照れとかいうものは存在しないのだろうかと眉根を顰めつつ、安堵している自身に、心の中で苦笑した。
『――望夢』
 え?
 声が、同調していた。間違いなく武は『のぞむ』と口にした。左手に持たれた紙片に走り書きされた文字も、私と同じ『望夢』。偶然と言われても、必然と言われても俄かには信じがたいその事実に、呆気に取られ、呆然としてしまう。
「女の子だったら、『のぞみ』って読ませようとしてたんだけどな」
「それも、私と一緒」
 元来、夫婦とは赤の他人である。別々に産まれ、違う道筋を経て成人し、全くの偶然で出会い、一つの道を歩くようになる。だけど、そんな二人なのにも関わらず、何故だか良く似た思考の末に、全く同じ結論を導き出すことがある。つくづく、人生は面白いものだと実感させられた。
「倉成望夢、悪くないだろ?」
「――ええ」
 ここまで意見が合致したのであれば、何も言うことは無い。あの二人もきっと認めてくれるだろう。そんなことを思いつつ、そっとお腹に手をやった。
「望夢、あなたの名前は望夢よ」
 名前には、それを付けたものの想いが籠もっている。私が逃亡生活を経て尚、月海の名を捨てなかったのは両親が付けてくれたモノだから。どのような過程を経たのであれ、私が月海を捨てることは、生命の紡ぎ糸を断ち切ってしまう気がしている。だから、望夢。あなたは、望夢でいて。願わくば生涯、命の灯火を消してしまうその時まで。
「ところで、つぐみ君。唐突な質問で何なのだが」
「今度は何?」
 いきなり改まった口調で話し掛けてきた。恐らく、またしてもどうでもいいことを思い付いたのだろう。思わず、脊髄反射並の速さで、身構えてしまう。
「再び男と女の双子が産まれた場合、『のぞむ』と『のぞみ』ということで良いのか?」
「……」
 ちなみに、私のお腹に一人しか居ないということは、超音波検査で分かっている。私達の希望で性別は聞いていないが、少なくても現状で二人以上が産まれるということはありえない。私はリアクションに困り、額に手を当て、思案した。
「大丈夫よ、武。その時にはまた皆で考えるから」
 出た結論は、出来うる限り清々しい笑顔で言い放つことだった。最近気付いたことなのだが、武のようなタイプの人間には、気付いていない振りをしてあげることで最大級のダメージを与えられることもあるらしい。
 それが奥さんのすることかという突っ込みが飛んできそうだけど、こういう関係も悪くは無い。
「イジけていいか?」
「家に帰った後、子供達に気付かれないよう一人でお願いね」
 途端、武はその場に座り込むと地面に何やら文字を書き始めた。いわゆる、のの字という奴だろう。流石に、少し苛め過ぎたか。
「――武」
 私はベッドから身を降ろすと、そっと武の肩を抱き寄せた。いきなりの行動に身を強張らせたが、すぐさま筋肉を弛緩し、身を委ねてくれた。
 やはり、この場所が一番落ち着く。何処よりも、何よりも、ここが私の居場所だと実感させてくれる。
 私は、武と共に生きてゆく。一度は諦めかけた夢だ。この手に掴んだ今、放すつもりは無い。彼こそが抜き身の刃である私を唯一収めてくれる鞘であるはずだ。
 その、祈りにも似た願いを腕に籠め、強くしっかりと抱きしめる。

 そう。私は今、夢と希望をこの手に収めているのだ。

                                    つづく


update 04/12/8

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