「お兄ちゃん……お兄ちゃんなんでしょ……?」
「……違うよ……ぼくは君の兄貴なんかじゃない……」
  弱々しく呟いた。
「どうしてそんなこと言うの!  ……やっと……やっと逢えたのに……」
  彼女もまた弱々しく呟くと、目に涙を浮かべた。ぼくはその瞳を正視できずに視線を上げてしまう。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
  彼女はぼくの胸に飛び込んでくると、何度となくその言葉を口にした。
  ぼくは、そんな彼女を抱き締めることも出来ず、虚空を見詰めたまま、ただ立ち尽くしていた――。
「よし、そこまではオッケーだな」
「は〜い。ご苦労様で〜す」
「お疲れさん」
  真面目な顔から一転、ぼくと沙羅は表情を崩した。そして舞台である体育館の講堂から飛び降りる。
「まあまあの出来だね。ほとんど始めてということを考慮に入れれば、会心と言ってもいい」
「ありがとうございます」
「当然ですよ。私とお兄ちゃんのコンビですから」
  言って、沙羅は腕に飛びついてくる。恥ずかしいから学校ではやるなとは言ってあるんだけど、決して悪い気はしない。
「ああ〜〜!!  沙羅先輩!!  そんな、兄妹でベタベタするなんて不健全です。ありえません。子供っぽすぎます!」
  講堂の下にいる、髪を首の後ろでまとめた女の子が騒ぎ立てた。
「へっへ〜。私の自慢のお兄ちゃんだもんね〜。だからいいんだよ〜」
「答になってません!」
「……はぁ……君達……飽きないの?」
  掠れるような小声で、ぼくの横にいる大人びた少年はそう呟いた。

  倉成武と八神ココを救うため、17年にも及んだBW発現計画は2034年五月七日をもって終結した。
  少年こと、ぼく、ホクトはその後、両親である倉成武、小町つぐみ、そして妹である松永沙羅と共に暮らし始め、みな倉成姓となった。そして五月末、近所にあるここ、県立浅川高校へと編入してきた。ここはお父さんの母校らしくて、ドキドキしながら新生活を始めたんだけど……そのわずか一週間後、沙羅も編入してきた。鳩鳴館はライプリヒに関わっていたし、ぼくと一緒にいたいのが理由らしい。
  ……いや、それ自体は何の問題もなく、むしろ嬉しいことなんだけど……沙羅……お願いだから、転校初日、教室に入った途端に『おにいちゃ〜ん』と言って抱き付いてくるのはやめてくれ……。
  ……それから、早一月半。外は照り付けるように強い陽射しと、セミの羽音で満ちていた。学校の方も期末試験が終わり、みんなが間近に迫った長期休暇に心を躍らせている。
  だけど、その前にイベントがある。それが双樹祭。秋口に全校を上げて行なわれる文化祭、浅川祭の小型版だ。ここでは文化部の発表が主な出し物になる。但し、平日開催の上、一般開放もしない内輪だけのお祭りだ。
  ぼくと沙羅の所属する演劇部は、大分昔に書かれたこの演劇部オリジナルの作品『想い出の赤いバラ』を公開することになった。そこでぼく達二人はなんと主役級の役をもらってしまった。設定は生き別れの兄妹。すこし驚いたけど、お話の世界では、そう珍しいものでもないのかも知れない。

「しかし……ホクト君がうちに入ってくれるとは思わなかったな」
「え?  見学した時、お世話になるかもって言ったよね?」
  隣にいる大人びた少年――部長の栗山さんに言葉を返した。
「いや……沙羅君の付き添いだと思ってたからね。ホクト君は運動神経が抜群にいいだろう?  てっきり運動部に行くと思ってたんだよ」
「演劇に興味あったから……」
  身体を動かすこと自体は嫌いではないが、体育会系というのはあまり肌に合わない。それにキュレイサピエンス種として高度の運動能力が発現している自分がその方面に進めば、話がややこしくなる。当分は、あまり目立った生き方をするべきではないのだ。
  演劇への興味も嘘ではない。演技とは、自己の意識を内在させ、全く別の人格を表面に押し出すのだ。その際に自己の意識は別人格そのものであるような、それを客観視しているような、不思議な状態である。それは即ち、第三視点の持ち主――BWに身体を貸し与えた自分の状態に近い気がしたのだ。研究すると決めた以上、少しでも身になりそうな方向に進みたかった。ただ、それだけだ。
「いいですか、沙羅先輩。たしかに三、四十年程前『妹、萌え♪』とかいう言葉が流行った時期があったそうです。だけどそれはあくまで仮想の世界であって、非現実でバーチャルなんです」
「そんなこと関係ないも〜ん。お兄ちゃんはお兄ちゃんなんだも〜ん」
「だ・か・ら、それは非生物学的で、非倫理的で反社会的なんです」
  沙羅と一つ年下の後輩、笹山七草(ささやまなぐさ)の口論はまだ続いていた。ちなみにこれはいつものことで、決して二人とも嫌い合っているわけではない。どちらかと言えば、この状況を楽しんでいる。
  ……だけど、見てて疲れるから、もう少し穏やかに付き合って欲しいなぁ……。
「大体、倉成先輩がいけないんです」
「え……ぼ、ぼく?」
  いきなり矛先が変わった。
「倉成先輩は沙羅先輩を甘やかしすぎです。兄妹の仲がいいのは大変に結構なことですけど、限度があります。知らない人が見たらラブラブでフィアンセで蜜月ですよ」
「は……はぁ……?」
  彼女は時たま、日本語がおかしくなる。言いたいことは何となく分かるのだが。
「だいじょ〜ぶだよね〜。お兄ちゃんにはなっきゅ先輩がいるから。私は学校にいる間、借りてるだけだも〜ん」
「さ、沙羅――」
「……ええぇぇぇ!?  く、倉成先輩、彼女いるんですかぁ!?」
「……言ってなかったっけ?  ユウって言うんだけど、何て言うのかなぁ。普段は気が強くて、元気元気なお転婆さんに見えるんだけど、芯の部分は優しくって、力を入れたら折れちゃいそうなくらい女の子っぽくて、護ってあげたいなってすごく思える娘で……って、あれ……?」
  気が付くと、視界から七草ちゃんが消えていた。見回すと、講堂の裏舞台でこちらに背を向けて体育座りをしている。どう見ても、雰囲気は暗い。
「……どうしたのかな……?」
「……お兄ちゃん……鈍すぎ……」
「いやー、ホクト君はもてるねえ」
「???」
  良く分からなかった。
「流石は校内でも噂の二人だね」
「……ひょっとして、あれのこと?」
「そ、『魅惑の双生児』」
  ぼくと沙羅は、一部……と言うか、半分以上の生徒にその様な呼称で通っているらしい。……後半はただの事実だけど、形容詞が意味不明なんだよな……。
「……悪いね……こんなことさせて……」
「?  なんの話?」
  不意に、部長の口調は呟くようなものに変わった。
「……入部したての君達を主役に抜擢する……その理由は勘付いてるだろう……?」
「うん……」
  今、この部は存続が危機的である。ユウと沙羅が所属していたハッキング同好会ほどでは無いが、放っておけばぼくらが卒業するまでもつ保証はない。それを防ぐためには存在を認知させる必要があるわけで、そのためにそこそこ有名なぼく達を露出せざるをえなかったわけで……別に悪いことだとは全然思っていない。
「……さ、それじゃ続けようか。本番まであと一週間しかないんだしね」
「はい」
  ぼくは力強く頷いた。

「すっかり遅くなっちゃったね」
「うん……そうだね……」
  校門を出る頃、周囲には夜の帳が下りていた。一応家に連絡は入れたが、いつも晩御飯を食べる時間を過ぎている。少し気まずいのが本音だ。
「って沙羅……暑いでしょ?  離れたら?」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんと一緒なら涼しいもん」
  腕を絡めながら、理屈になっていない理屈を口にする。流石に汗がべとつくほどくっついてるのは不健全な気がするんだけど……。
「それよりお兄ちゃん、最近なっきゅ先輩に会えないの寂しいでしょ〜?」
「ユウも忙しいみたいだから……でも、電話はしてるから大丈夫だよ」
  ユウは最近、田中先生――田中優美清春香菜鳩鳴館女子大学教授を熱心に手伝っている。本人は第三視点と二つのキュレイをもっと知りたいと言ってはいるが、本音は多分違う。沙羅がぼくと一緒にいたいのと同じで、甘えたいのだ。そのせいで会える時間は極端に短い。世間様が思う程、恋人恋人は出来ないのが現状だ。
「……?」
  近道の公園に入った途端、沙羅が立ち止まった。つられて、ぼくも足を止めてしまう。
「どうしたの?」
「……お兄ちゃん……あれ……」
  沙羅は目の前を指差した。そこには一人の少年が立ち尽くしている。
「……倉成兄妹……だね……?」
  少年は軽やかに言葉を紡ぎ出した。この暑いのに、パーカーを着て、フードを被っているため顔は良く分からない。赤外線視力も、街灯を背にしている彼には無力だ。
「……人違いじゃない?  ぼくは桑古木涼権。で、こっちの娘は八神ココって言うんだけど」
  とりあえずしらばっくれておいた。こんな変人と無理に付き合う道理はない。
「ふふふ……君達の様な有名人を見間違うとでも?」
  『……なら始めから聞かないでよ……』心の中で突っ込んでおいた。
「……それで何の用?  ぼく達急いでるんだよ。家庭円満の秘訣は一緒に食事することだって、誰かに教わらなかった?」
「……今度の双樹祭に出演しないで欲しい……」
「……はい?」
  いきなり、無茶な要求をしてきた。
「……それは無理だよ……そもそも、ぼく達だけで決められることでもないし……」
「……そんなことは分かっている……だけど飲んでもらうよ……でないと、手荒な手段を使わなきゃなんないから……」
  言って少年は懐から何をか取り出した。この暗がりでも照り返しで刃物だと分かる。それも手の平に収まらないくらいの大きさだ。
「命を取るとは言いません……しかし顔に傷を付けてしまえば、出演は無理でしょう……」
  淡々と、そして冷酷に言葉を吐いてきた。
「……お兄ちゃん……」
  沙羅が腕に力を篭めてきた。彼女の心音が聞こえてくる気がして、ぼくは握り拳に力を入れた。
「……沙羅……下がってて――いや、ぼくから離れるな」
  危ないところだった。目の前の少年が一人である保証はない。何処かに潜んでいるなら、確実に沙羅の方を狙うであろう。
「……思ったより頭が回るね……まあ、一緒にいたからって、どうなるとも思わないけど……」
  少年が右手を上げると、そこかしこから同じ格好をした人達が沸いて出た。その数、十四、五人といった所。完全に囲まれてしまっている。
「もう一度だけ言います……出演を取りやめて下さい……さもないと可愛い妹さんに被害が及びますよ……」
  最後の警告を口にした。もちろん従う気は無い。
「……沙羅……走れるよね……」
「う、うん。大丈夫」
  小声で沙羅に耳打ちする。ここは逃げるしかない。
「……右側のやせた二人の間が一番突破しやすい……ぼくが隙をつくるから、ついてきて……」
「分かった……」
  小さく、頷いた。
「……返答は……してもらえませんか……残念です……」
「……ねえ。ぼくがサッカー部に誘われてたって、知ってた?」
「?」
「……つまりは……こういうことだよ……」
  刹那――ぼくは足元の小石を右足でリフティングすると、軸足を変え、左足で蹴り飛ばした。小石は風を切る音を残して、やせた男の左肩に直撃する。
「行くよ、沙羅!」
  沙羅の右手を引き、走り出す。石を食らって苦悶している側に沙羅を配置し、ぼくはもう一人からの盾になる。
「慌てるなぁ!  二人は丸腰だぞ!」
  少年が声を荒らげた。それに気を持ち直したもう一人の男が、懐から何かを取り出そうとする。
  ドグオォ!!  それよりも早く、ぼくの右拳が彼の鳩尾に入った。
「……そーいえば、ボクシング部と空手部とテコンドークラブに小林寺拳法同好会と……いくつから誘われたっけ……?」
  ゆっくり崩れ落ちる脇役Aを尻目に、ぼくは呑気に呟いてみた。
  ヒュン――風を切る音がした。それと同時に、軽い痛みを顔の周辺で感じる。何が起こったのか一瞬で把握できない。次いで、金属が転がる音を前方で知覚した。見てみると、金属光沢を持つ縦長の物体が転がっている。
  ナイフを投げつけてきたのだ。
「な……」
「お、お兄ちゃん……」
「……大人しく従がわないからです……」
  想定外だった。しかし、足を止めるわけには行かない。彼らに捕まる方が危険だ。
「沙羅!  先に行け!」
「で、でも……」
「ぼくを信じて。すぐに追うから」
  一つの賭けだった。これ以上の伏兵が居るのであれば危険極まりない。しかし、彼らが手段を選ばない以上、沙羅が安全圏に行くまで時間を稼がざるを得ない。時間にすればものの十数秒。出来ないことではないはずだ。
「とりあえず……これは返すよ」
  ナイフを拾い上げ、投げ返した。狙い通り、それは彼らの手前の地面に突き刺さる。
  幸運だったのは、これで数秒彼らの動きが止まったことだ。沙羅は既に、公園の出口に差し掛かっている。あとは、ぼくが逃げ出すだけだ。
  ぼくは踵を返すと、全力でその場から走り去った――。

「……それで……何があったの?」
「……良く分からないよ……とにかくいきなり襲われて……」
  ぼくと沙羅は何とか自宅に帰ってきた。2LDKのこじんまりとした作り。四人で住むには少し狭いが、みんなのことを近くに感じられるから結構気に入っている。
  さっきは気付かなかったのだが、投げ付けられたナイフが左の頬を掠めていたらしい。五センチほどの切り傷がパックリ口を開け、赤い液体が滴っている。今はお母さんに傷の具合を見てもらっているところだ。
「……そう深い傷じゃないみたいね……まあ、普通なら二週間は傷痕が消えないでしょうけど、あなたなら三日もあれば完治すると思う……」
  血止めの薬を塗り付け、大きめの絆創膏を貼ってくれる。治るまでこれは取らない方がいいな。三日で傷が消えたら、何かと面倒だ。
「……分からない連中ね……双樹祭……って、ただの学園祭なんでしょう?  人を傷付けるリスクを負ってまで妨害する価値のあるものなの?」
「……無いと思う……私達が出ないからって、確実に部が潰れるわけじゃないし……それに部が潰れて得をする人間なんて……」
「……いないとは思う……」
「……となると個人的な怨恨……?」
「どうだろう……そこまで恨まれるようなことした覚えは……」
「……!  ……まさか……」
  お母さんの表情が凍り付いた。顔からは血の気が引き、震えているのがここからでも分かる。
「……ライプリヒの残党じゃ……」
「え……?」
「ま、まさか……」
「……ありえない話じゃないわ……奴らにしてみれば、あの会社を潰したのは優と私達でしょうから……」
  そこで一瞬、会話が途切れた。
「ね、ねえ……そう言えばパパは……?」
「……まだ帰ってきてないわ……」
「……」
  全員が沈黙した。何も言い出すことも出来ず、下を見たまま、表情に影を落とす。
  ジリリリリリリッ。不意に、電話のベルが鳴った。三人が三人とも身体をびくつかせ、その方向を見遣った。
「……私が……出るわ……」
  お母さんはゆっくりと立ち上がり、恐る恐る受話器を耳に当てる。
「はい……倉成です……」
  僅か二、三秒の沈黙が怖かった。次に紡ぎ出される言葉に身構え、息を呑んでしまう。
「……武……?  大丈夫なの……?」
  やはり、お父さんらしい。
「……はぁ!?  撮影が延びて遅くなる!?  あのね、そういう時は早めに連絡しろっていつも――ああ!!  切ったわね!!  覚えてなさい!!」
  荒々しく、受話器を元に戻す。どうやら、無事は無事らしい。……家に帰ってきてからは保証できないけど……。
「……はぁ……」
  安心して気が抜けたのか、お母さんは近場のソファに座り込む。天井の照明をぼんやりと眺めながら、表情を呆けさせた。
「……とりあえず……晩御飯、どうしようか……?」
「……ぼくが作るよ……」
  この家の第二調理師であるぼくが志願した。

「むむ……それはきっと映画研究部の仕業ですよ。謀略の智略で策略です」
  翌日――。ぼく達は放課後の練習時に、昨日の出来事を全て話した。黙っていることも考えたのだが、被害が拡大する可能性もある。そうなったら何も言わない方が無責任だ。
「……でもなぁ……映研と仲が悪いのは知ってるけど、そんなことするかなぁ?」
「倉成先輩はまだ入って日が無いから知らないんですよ。奴らは本当に、醜悪で劣悪で極悪なんですから」
「……七草ちゃんも、入って三ヶ月くらいだよね?」
「一月半と三ヶ月は二倍も違います」
  ……まあ、それはそうだけど……。
「……そんなことはどうでもいいんだけど……栗山部長、本心で答えて。映画研究部はこんなことする可能性あるの?」
「……無いね。たしかに関係が良好でないのは事実だけど、一触即発でもない。かなり昔の遺恨が残っているせいで疎遠だというのが正しい表現だろうね」
「……はぁ……じゃあ一体誰が……?」
「だったら運動部の連中ですよ。倉成先輩を取り損ねた恨みを――」
「……七草君。そんな、人を無差別に悪者にしない方がいいですよ」
「私は性悪論者ですから。あ、もちろん倉成先輩は別格ですけど」
「……は、はぁ?」
  また、良く分からなかった。
「……沙羅。何か分かった?」
「……厳しいでござる……」
  沙羅は昨晩からずっと、調べうる情報全てを検索している。双樹祭。演劇部の成り立ち。県立浅川高校。そしてライプリヒ関係者のその後。不法なアクセスはしたくなかったから、手に入るものは限定されているけど、ライプリヒ関係者は田中先生と空が監視を続けている。特に目立った動きはしていないというのが、現状らしい。
「……そうだよなぁ……あいつらがこんな小さい関わり方するとは思えないし……」
  やはり、校内のいざこざの可能性が高い。……だけど、うちみたいな弱小文化部の妨害して価値あるのかなぁ……?
「……それで部長……どうする?」
「……どう……って言うのは?」
「……ぼく達だけならまだしも、他の人達にも被害が及ぶかもしれない……それは嫌だし……」
「……ホクト君と沙羅君はどうしたい?」
「え……?」
  意外な返答だった。一存で決めると思っていたのだ。
「もちろんやめたくない。甘く見られたまま終えたら、悔しいよ」
  沙羅の言葉に、部長は一瞬だけ間を取った。
「……なら続けよう」
「そ、そんなに簡単でいいの?」
  さらりと返した部長に、ぼくは若干驚いた。
「……ホクト君……僕を侮らないで欲しいね……たかが十人ほどしかいない部の部長だと言っても、彼らを束ねる長なんだ……望むことを出来うる限り叶えてあげるのが当然だろう?」
「部長……」
「カッコイイです!!  今の部長は、キューで、モエーで、ハヒーですよ!」
「……は、はぁ……」
  七草ちゃんの擬音は理解できなかったが、たしかに格好良いと思えた。
  よし、覚悟を決めよう。ぼくは全力で沙羅とこの部を護る。こんな程度のことで屈してたまるもんか。
  ぼくは意気込むと、沙羅と共に講堂に飛び乗った。

  ――視点。倉成月海。
  今日は双樹祭当日。ホクトと沙羅が演劇部の主役として登場する日だ。行きたいが、家族さえも入れない内輪だけのお祭りだ。それに例え行けたとしても、見た目の年齢がそう変わらない自分との関係を説明するのは面倒だ。軽はずみに姉か何かということにしてしまうと、後々不都合が生じかねない。今日は大人しくしておこう。
  ソファにもたれ、時計を見上げる。十時を少し過ぎた辺りを指していた。演劇部は一時に発表と言っていた。学校は歩いて二十分程と近いので、午後になってから行っても充分に間に合う……と、やはり二人の晴れ舞台を見に行きたいと思っている自分がいることに、私は苦笑した。
「……それにしても……結局、何だったの、あいつらは……」
  あれ以来、ホクト達に何らかの干渉は無かった。警戒し、出来うる限り安全な道を選ばさせているし、一人で行動しないようにさせている。それに私が付き添えるなら出来る限り一緒に居るのが功を奏しているのかもしれない。しかし、それにしても静かすぎた。あれだけ派手な行動を取ってきた奴等が一度失敗しただけで諦めるのだろうか?
「……まさか……今日を狙って……?」
  当日は、最後の準備やら確認やらでごった返す。逆に言えば、注意が一番散漫になるわけで……狙い目と言えば一番の狙い目だ。
  でも……ここが一番の狙い目と言うことは、ホクトと沙羅なら気付いているだろう。それに千人以上の生徒で溢れる学内で行動を起こすのは、あまり賢い人間のすることではない。だけど逆に、人で溢れているから都合がいいという見方も出来る。
「やっぱり……潜り込んだ方が安全かしら……?」
  もう二度と無責任な親にはなりたくない。その想いが私の頭を掠めた。
  ピンポーン。不意に、チャイムの音がした。私は、一度身体をびくつかせたが、気をしっかり持って、玄関に向かう。
「……優……?」
  レンズの向こう側に居たのは、田中優美清春香菜鳩鳴館女子大学教授だった。平日に教授がこんなところに来るなんて……またサボったわね……。
「元気してる?  つぐみ」
「……ええ……お互いに元気よ……多分これからもずっと……」
  一応、お約束の挨拶を交わしておく。
「……それで……何の用?」
「双樹祭に行きましょう」
「……はい?」
「良く分からない連中に教われたって話は前にも聞いたけど……二人のこと心配でしょう?  監視に行くのよ」
「……それは行けるなら行きたいけど……その前に優……その格好は何?」
  最初から気にはなっていた。優は胸にリボンの付いた、灰色のブレザーを身に纏っていたのだ。聞くまでもない。沙羅が毎日着ているものだ。
「ん?  見て分かるでしょ?  浅川高校の制服よ」
「……聞いてるのはそこじゃなくて……」
「さ、つぐみ。あなたも着なさい」
「…………………………………………は?」
  言っていることが理解できなかった。いや、理解したくなかったというのが正しい。
「双樹祭は学内だけのお祭りなんだから、紛れようと思ったら生徒に成りすますしかないのよ。大丈夫。ちゃんと、あるつてを使ってあなたの分も用意したから」
「ちょ、ちょ……優、本気なの?  一部の人は忘れてると思うけど、私達、数字で言うと、ちょっとした年齢なのよ。そんな二人が高校の制服なんて――」
「だから逆にファンサービスになるんじゃない」
「……絵も無いのに……」
  異次元の会話はさておき。

  17分後――平均年齢三十八歳の二人が、近所でも結構可愛いと評判のブレザーを纏って姿を現した。
  ちなみにつぐみは今後の近所付き合いも考えて、髪をアップにした上で、帽子を目深に被って別人の振りをしていたのだが……これはこれで一部の方にうけると作者が考えていたかは、定かではない。

  ――視点。倉成ホクト。
「……『大丈夫。ぼくはずっと側にいる。だってぼくは君の兄貴なんだから』……」
  台本を暗唱し、確認する。一応、一通り記憶しているつもりだが、本番の舞台で真っ白にならない保証はない。ぎりぎりまで読み込んで、少しでも安心したかった。
「……沙羅、まだ調べてるの?  台詞とか大丈夫?」
「平気、平気。その程度の量だったら、一時間くらいで覚えられたもん」
「……」
  『ぼく、二週間かかったんだけど……』
  兄の威厳を保持するため、出掛かった台詞は飲み込んでおいた。
「それで……なにか分かった?」
  沙羅は、PDAに付属させたキーボードを叩き続けている。彼らの正体は未だ不明で、今日という日に何もしてこない保証はどこにもない。
「全然……田中先生の情報からライプリヒの線はほとんど消えたけど……学内の情報はプロテクトが多くて……突破していいなら、簡単なんだけど……」
「そっか……」
  やはり、兄として法は犯させたくない。でも、沙羅やみんなを護るためには必要なことにも感じていた。その葛藤はずっとあったし、もちろん沙羅の中にもあるのだろう。
  ……ぼくは兄としてどうすればいいんだろう……?
「あ、でもお兄ちゃん。あんまり関係ないけど面白いの見つけたよ。」
「?」
「ほら、これ見て」
  言って液晶の一部を指差した。
「……2013年度双樹祭、演劇部演目『想い出の赤いバラ』――主演……え?」
「ね、驚きでしょ」
  本当に驚いた。そこに書かれているのは、ぼくらがよく知っている人物だったのだ。
「……倉成武……」
「パパも演劇部だったんだ」
「……」
  何だか、ドキドキした。今まで会うことができなかった父親と同じ行動を、ぼく達は取ろうとしている。
  やっぱりぼく達は繋がっている。そのことが、とても幸せに思えた。
「倉成せんぱーい、沙羅せんぱーい。そろそろ最後の通し稽古しますから、集まってくださーい」
  廊下から、七草ちゃんの声が聞こえた。
  ぼくは高揚した気分のまま、沙羅の手を引くと、みんなのところへと向かった。

  ――視点。倉成月海。
「……浅川高校……ね……」
  私達はあっさりと校内への侵入に成功した。危機意識が欠如していると、文句を言いたいところだが、学生手帳まで偽造している優が上手と言わざるを得ない。下手をすれば、予備工作として教師に根回しをしていそうだ。
「……どうしたの?  しみじみと……」
「……ううん。武もこの学校に通ってたんだと思うと、ちょっとね……」
  私には学校に通った記憶がほとんど無い。十二歳の大事故以前だから、もう三十年近くも前の話だ……。
「……そう言えば、武も双樹祭で演劇の主役をやったって言ってたわ……」
「へえ?  倉成、演劇部だったんだ。かなり意外ね」
「……違うわよ……特にどこにも所属してなかった武を、無理矢理一月か二月だけ、引っ張ってきたらしいのよ……」
「へえ……」
「……そんな武が、今は演技の世界で私達を食べさせてるんだから面白い話よね……」
  私の夫、倉成武は今、スタントマンを生業にしている。あまり、無茶な仕事をして欲しくないのが本音だが、現実問題として食べていくためには仕方が無い。身体だけは頑丈だから、新人の割に待遇はいいのだが。
「……それで、演劇部は一時からだっけ?  ……あと二時間くらいあるわね……じゃあ、時間潰しに、この、オカルト研究会主催『古代絶滅種とUMA(未確認生物)』でも見物に……」
「……優……本当に私達のこと、心配してる……?」
  不安になって、ぽつりと呟いてみた。

  ――視点、倉成ホクト。
  トクン、トクン、トクン――心臓の音が聞こえた。
  開演まで予定では後34分。始まると先ずナレーションから入り、ぼくと沙羅は別々に登場する。沙羅のパートが先行するから、出番まではかなりある。だけどぼくの鼓動は早くもピークに達しようとしていた。
「……大分……緊張してるね……いいことだ」
「……いいこと?」
  部長の語り掛けに、おうむ返しに呟いた。
「ああ……いい演技は適度に張り詰めていないと出来ない。弦楽器はたるんでいたらまともな音は出ないだろう?  もちろん、張り過ぎてもいけないが、緩いよりはましだからね」
「……そう……なんだ……」
「……始めてなんだ。いい演技をしようと意識したり、細部を気に掛け過ぎないこと。あとは頭の中にある筋書き通り、全力を出し切るだけだよ。
  ……ちなみに、上手くいくと、君の校内での株は数倍に跳ね上がるだろうね」
「……」
  ……この人は……。
「……ユウ……」
  瞼を閉じ、一番大切な人の名前を呟いてみた。
  やはり、落ち着く。彼女の全てを感じられる気がして、心の迷いが溶けて消えた。
「……彼女……だったっけ?  残念だったね、双樹祭で。でも、秋に浅川祭がある。今度も君が出られるように、考えておくよ」
「……いや……ユウにはカッコ悪いとこ見られたくないから……これで良かったのかも……」
「……なるほど」
  二人して吹き出した。うん、このくらいが適度な緊張感なのかも。ぼくは心の中で小さく呟くと、もう一度だけ愛しい人の姿を思い浮かべていた。

  ――視点。倉成沙羅。
「ああぁぁぁ!!  な、なに、これえぇぇぇ!!?」
  私は思わず叫んでしまっていた。しかしこれは普通、声を上げる。
「ど、どうしたんです、沙羅先輩。って言うか、何でまだ控室にいるんです!  あと五分かそこらで出番ですよ!!」
「……ちょっと黙ってて……冗談じゃないわよ……」
  PDAの液晶を食い入るように見詰め、呟く。お兄ちゃんの言い付けを破って、学内のシステムに侵入したのだ。結論から言ってしまえば、一つのプログラムが、そこに組み込まれていた。その内容は大変にシンプル。1時7分、学内全部の電源を使用不能にする。それだけだ。
  しかし、そんなことをされれば当然、劇を続けることは出来ない。今までの努力を一瞬にして無力化する隠し玉を相手は用意していたのだ。
「ちょ、ちょっと沙羅先輩、聞いてるんですか?  ナレーション始まってます!!  あと三、四分くらいで本当に出番ですよ!!」
「……正確には?」
「は、はい?」
「私の出番まで、あと何秒?  正確にお願い!」
「え、えっと……204秒くらい……?」
「充分よ!」
  百秒もあれば、このプログラムを無力化できる。幸いだったのは、時限設定をしているプログラムが、完全に独立していることだ。そこを叩けば、半永久的に作動させないことが可能なはずだ。
「あ、あの、沙羅先輩……衣装着替える時間……二分くらい必要なんですけど……」
  後輩の発する言葉の意味を理解しないまま、私は最高速でタイピングを開始した――。

  ――視点。田中優美清春香菜。
「……おかしいわね……」
「……どうしたの?」
  体育館に並べられた無数のパイプ椅子のうちの二つに、私とつぐみは並んで座っていた。演目は既に始まっており、暗闇の中、女生徒が冒頭部のナレーションを語っている。
「……あの今喋ってる生徒よ……体温が異常に上昇してるわ……」
  キュレイウィルスがコードを書き換えた十二年前、私にも赤外線視力が備わってしまった。便利といえば便利なのだが、他人の感情情報を必要以上に覗き見ている気がして、あまりいい気はしない。
「……緊張してるだけじゃない……?」
「……それだけならいいんだけど……」
  あごに手を当て、考えこむ。我ながら女子高生らしからぬ仕草だが、深くは考えないでおいた。
「……ほら、優。沙羅が出てきたわよ……何か、異様に息が上がってるけど……」
  たしかに、沙羅の呼吸は荒れている。しかも、何故か衣装はたった今、着たかのように、若干乱れていた。
「……そうね……それじゃ、少し見たら裏方へ行きましょう……」
  連中の目的は不明だが、近くで警護するにこしたことは無いだろう。入り込めなかったら、舞台に近い場所で見守ればいいだけだ。
  ――ゾワッ。不意に、悪寒を感じた。何か……誰かに見られているような……。
「……優?」
「……つぐみ……後ろに誰かいる……確かめるから、振り返らないで……」
  コンパクトを開き、体育館の入口を見遣る。こういう時、赤外線視力は本当に便利だ。
「……この学校の制服を着てない奴がいる……」
「……本当に?  インフラビジョンじゃ、服装までは分からないでしょう?」
「……この暑いのに、顔を覆える服を着るバカはそう居ないわよ……」
「……なるほど……」
  ホクト君から聞いた情報だと、彼らは揃ってパーカーを着ていたらしい。顔を隠すのが目的なのだろうが、不自然なことこの上ない。
「……二人掛かりで抑えたいところだけど、囮の可能性もあるわ……私一人で行く」
「……」
  つぐみは小さく頷くと、ゆっくり立ち上がり、講堂へと向かう。
  私は私で、彼に気取られぬよう、入口へと足を運んだ。
  スッ――突然、彼は右腕を上げた。そこに握られているものは――。
「エアガン!」
  心の中で叫んだ。
  あれは内部のバネを改造すれば百メートルは飛ばせる。何を狙う気かは知らないが、ロクな結果を生むはずが無い。
  私は瞬間的な判断で地を蹴ると、銃口に手をかざした。
  パシュ――空気の弾ける音と共に、手に痛みが走った。その度合いからして肉に少し食い込んだ程度だろう。弾さえ摘出すれば、すぐに治る。
「……余計なことを……」
「……あなた……一体、何なの!?  何のためにこんなことを……」
「……大人しく、僕の言うことを聞いていれば良かったんだ……」
「だから答えなさい!!  演劇部に恨みでもあるの!?」
「……ふふ……演劇部にはあんまし恨みはないかな……あ、それと倉成兄妹そのものも、さして興味無い……」
「……あなた……本当に何なの……?」
「……まあ、こうなっちゃったら仕方ないや……今のエアガンで、僕のネタは打ち止め。キュレイであるあなたとまともにやりあうつもりも無いし。こうなったら最後まで見物でもしようかな。
  ね、田中優美清春香菜、元ライプリヒ第三視点研究員?」
「!!」
  小馬鹿にされているのが腹立たしかった。本当に何を企んでいるのだ、この少年は……。
  どうすることが最良の術か分からず、私はただ、彼に従うことにした――。

  ――視点。倉成ホクト。
「……違うよ……ぼくは君の兄貴なんかじゃない……」
  ここまでは順調だった。特に気負い過ぎることも無く、落ち着いて演技が出来ていた。『完全に役に入り込まず、冷静な部分を頭に残す』部長に教わった基本を何とかそれなりにこなせてきたと思う。
  ……ちなみに沙羅は最初に少し遅れてきた以外はほぼ完璧なんだけど……天才ってちょっと羨ましい……。
「……お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
  予定通り、沙羅が胸に飛び込んでくる。ここでぼくは少し呆けて――。
  ――トクン。視界が歪んだ。
「……え?」
  思わず声に出してしまっていた。沙羅が非難としてお腹をつねってくる。
  ……おかげで少し目が覚めたけど……え?
  今度は声に出さなかった……出さなかったけど……。
「……君は誰?」
  胸の中には、見たことの無い女の子がいた。年齢はぼくや沙羅とそう変わらない。彼女は沙羅と同じような服を着ていて――。
「く・ら・な・り。真面目にやんなさい。みんな見てんのよ!」
「……はいはい、分かったよ」
「あぁぁ!!  その言い方、すっごいむかつく〜!!」
  声にならない程の掠れ声で、二人は言葉を交わしていた。胸の中にいる少女と、ぼくがいる場所から発せられる、男の人の声……これは……お父さん……?
  間違い無い。少し若いけど、これはお父さんの声だ。
「……じゃあ……これって……」
  ぼくは薄れゆく意識の中、“彼”に身体を貸し与える自分をたしかに実感していた……。

  ――視点。田中優美清春香菜。
「……まさか……あれは……ブリックヴィンケル……」
「……やっぱり発現してしまったね……まあ、この劇をやめたくないといったのはそっちだし……僕は一応止めたよ……」
「ふざけないで!!  何で、“彼”が発現するのよ!?」
「おやおや……賢明なあなたらしくも無い……この舞台は、二十一年前、倉成ホクトの父親、倉成武が主役を演じたのと同じものなんだよ……ちょうど今日、7月17日、午後一時開演だ……演目もほとんど同じ内容だしね……」
「だから冗談はよして!  “彼”の発現はそんな簡単なことじゃない!  出来うる限り全ての状況を再現しなくてはいけないの!  そのために……私達がどれだけ苦労したと……」
「……3D絵、というものを知っているかい?」
「……?」
  不意に、意味の分からない問い掛けをしてきた。
「……三次元の存在である人間は二次元の斜影を重ねあわせて三次元を理解する……3D絵は普段、人間が無意識に行なっている斜影の統合を意識的に外して、全く別の組み合わせによって、新たな三次元を知覚……いや、錯覚するといった方がいいかな?  中々、面白い遊びだよね……」
「……何が言いたいの……?」
「あれは始めこそ難しいが、慣れてしまうと何と言うこともなく出来る……彼ら、四次元の存在もそれに似ていてね……一度三次元に紛れてしまうと、実存をこちらに感じてしまう……分かり易く言えばクセになるんだ……それは本人の意思とは何の関係も無い……ちょっとした弾みでこちらにやって来て、最終的には……」
「……どうなるっていうの……?」
「……帰れなくなる……」
  ゾワッ――全身の毛が逆立った。
「……まあ、とは言ってもこちらの世界での肉体を持たない彼らのことだ……媒体を半永久的に共有する、というのが正しいのかな?」
「……じょう……だんじゃないわよ……って言うか、あなたは何者なのよ!?  ブリックヴィンケルと第三視点は私と桑古木以外では数人しか知らなかったトップシークレット。それを知ってるなんて……正体を見せなさい!!」
  言って、彼のフードを力ずくではいだ。その下から現れた顔は――。
「あなたは……たしか演劇部の部長……?」
  ホクト君達が襲われて以来、周辺の人物には注意を払っていた。間違い無い。彼はこの高校の演劇部部長の栗山だ。
「……残念……それだと正解は半分かな……僕はこの身体を借りているだけだよ……」
「あなた……まさか……」
  一番考えたくない可能性だった。……“彼”以外にもいたなんて……
「……そう……僕は“彼”――ブリックヴィンケルと同質の存在……特に名前とかは無いけど、そうだな……時の亡命者『ツァイツ・フリュヒトリング』……呼ぶ時はツァイツとでも呼んでくれるかな……」
  私は、その事実を飲み込めないまま、その場に立ち尽くしてしまっていた……。

  ――視点。―――――――。
  ……ぼくはだれ……?  ぼくは倉成ホクト……倉成武と小町つぐみの息子……そして……沙羅のお兄ちゃん……。
  違う……?  おれは倉成武……県立浅川高校の二年生……今は臨時で演劇部員を……。
  いや……ぼくは……ブリックヴィンケル……?  この世界とは違う、一次元、上の存在……ここにいてはいけない存在……?
「……お兄ちゃん……お兄ちゃん……どうしたのよ!  まだ劇終わってないよ!」
  ……君はだれ……?  ああ……沙羅か……そうだよ……今は双樹祭……ぼくは演劇部で主役を……。
「こらぁ!  倉成、仕事しろ!  嫌々なのは知ってるけど、本番で寝るんじゃない!!」
  ……うるさいぞ……人間というものはだな、寝たい時に寝て、食いたい時に食う。そして隙あらば、Hな妄想をする……それが一番健康にいいんだ……。
「あれ?  お兄ちゃん、どうしたの?  来るなら来るって言ってよ〜。びっくりしちゃった〜」
  ……ううん……君はココ……?  そうか……ぼくは帰ってきたのか……ぼくを観ることが出来る唯一の人……ぼくの愛しい人……。
  様々な意識が一瞬にして流れ込んだ。今のぼくが誰で、何なのかは理解できない。
  でも、そんなことはどうでもいいようなことにも思えた。ぼくは唯、交じりゆく意識の流れに、身を任せていた……。

  ――視点。倉成月海。
「優!  これって一体……何が起こってるの!」
  私は事態を飲み込めず、優の居る場所へと走りこんだ。多分、世界新記録くらいの速度は出ていたのだろうけど、それどころではない。
「……つぐみ……ちょっと待ってて……答えなさい!  あなたも第三視点の持ち主なら、こうなることは分かっていたはずよ!  何で、せせこましい妨害をしたり、あっさり諦めたり……そうか……あなたは……こうなることを望んでいたのね……」
「……ふーん……やっぱり、頭いいね……そうさ。僕は“彼”を求めていた……そのためにはどうしてもこの舞台は必要でね……この程度の妨害では中止しないどころか、躍起になって成し遂げようとすることは“見て”いたよ……もちろん、この部長の口を借りて、そう仕向けたりもしたけどね」
「理由は!?  あなたは……何のために……」
  目の前では、私の理解を超えた会話が交わされていた。しかし、一つだけ分かることがある。ホクトは今、“彼”――ブリックヴィンケルの媒体になっているのだ。
  私は踵を返すと、ホクトのいる講堂へと足を向けた。

  ――視点。倉成沙羅。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん……起きてよぉ!!  もう劇のことなんかどうでもいい!!  やっと……やっと会えたのに……これからずっと一緒にいられるって思ったのに……」
  私の腕の中ではお兄ちゃんが眠っている。劇の筋書きでは、『雨に打たれて倒れてしまった私を、お兄ちゃんが優しく包み込む』となっており、主従が逆転してしまっているのが、そんなことは関係ない。
  二度と目を覚まさないんじゃないか。目覚めても私のことを憶えていないんじゃないか。それだけが気がかりで、やるせなかった。
「沙羅!  ホクトの状態は!?」
「ママ……?  ……わかんない……動かないよ……」
  声が掠れて、何を言っているかが良く分からない。ママが近くにやってきて、お兄ちゃんの具合を調べている。
「大丈夫よ、沙羅……ホクトは死んだりしない……だけど……ううん。大丈夫……」
  動揺して、無理に取り繕っているのが分かった。あのママがこんなになるなんて……。何が起こってるのか、私には分からない……分からないけど……。
「……お兄ちゃん……起きて……私もママもここにいる……だから……お願い……」
  私はお兄ちゃんを胸の中に抱き寄せると、キュッと、軽く抱き締めた。

  ――視点。―――――――。
  ……暖かい……これは誰……?  なんだか……はじめてじゃないみたい……いつか……そうか……出会えた時……もう一度……愛しい人達に……。
  ……帰ろう……ぼくは……倉成ホクト……帰って……みんなと一緒に……す……ご……す……ん……だ……。
  ぼくは……ゆっくりと……目を開けた……。

  ――視点。倉成ホクト。
「……」
  目の前には、沙羅とお母さんがいた。あの時と同じ……再び出会えたあの時と……ぼく達は一つだった。それを実感できた。
「……お兄ちゃん……」
「……ホクト……」
  二人とも泣いている……そう言えばお父さんに、『男として、女を泣かすことだけはするな』……って言われてたっけ……はは……お父さん……ぼく、まだまだお父さんの域には達せそうにないや……。
  身体に力は入らなかったけど、ぼくは無理をして、二人を抱き締めた……。

  ――視点。田中優美清春香菜。
「……どうやら……“彼”は帰ったみたいね……良かった……ううん……あの時、無理に呼び出してこう言うのは失礼だけど……良かった……」
  心から安堵の息を吐き出した。“彼”の住む場所はここじゃない……こちらに居続けても、それはきっとお互い不幸な結果しか導かないから……。
「……ふふ……これは終わりじゃないよ……まだ“彼”は完全にクセにはなっていないから……まあ、あと二、三度といったところかな……次は気を付けた方がいいね」
「あなたは……」
  ツァイツの言うことは、おそらく真実なのだろう。今回、この程度の錯覚で“彼”は発現したのだ。次はもっと単純な……それこそ、同じ日の同じ時間に、似た様なメンバーで同じ場所に立つだけで錯覚しかねない。
  一日一日を完璧に記憶しているわけではない私達に、それを防ぐ術は無いのだ。
「……僕は一人というのが嫌いでね……この広い世界で、第三視点を持つものは僕だけ……だから、“彼”を呼びだしたあなた達を“見た”時は、すごく嬉しかったよ……これで、一人から解放されるって思った……その話はしたよね?」
「……ええ……」
  さっき、その話は聞いた。恐ろしく自分本意の考え方だが、一人が嫌だということだけは、共感できないわけではない。
「……あっちの世界にも、物事の摂理を考える“学問”というものがあってね……まあ、こっちの世界の科学や神学とは若干異なるけど、基本的に同じものと思ってくれていい……そこで僕は実験台だったんだよ……三次元世界に紛れるという目的も持ったね……」
「……」
「……あなたも研究者なら、人……いや、総称として知的生命体と呼ぼうか……彼らが持つ好奇心が時に、どれだけ残酷なものかは知っているだろう?  僕は戻れる保証の無い旅を繰り返させられ、そして、本当に戻れなくなった……おっと、ちなみにこの肉体は借りてるだけで、栗山部長本人は僕がいることを知らない。……いや、薄々、何かがいることには勘付いているかもしれないけど、会話はしたことない……というのが正しいかな?」
「……あなた……ひょっとして……」
  不意に、一つの考えが頭を掠めた。
「……帰りたいの……?」
「……まさか……あんな世界に未練は無いよ……」
  嘘だとすぐに分かった。知的生命体は、どんなにその集団に絶望しても、個人に希望を見出すことが出来る。つぐみにとっての倉成がそうで、沙羅にとってはホクト君がそれに当たる。
  彼は……あちらの世界に帰る術を探しているのだ……。
「……それじゃあね……田中先生。これからもちょくちょくお邪魔させてもらうかもしれない……嫌だと思うけど、僕は人の迷惑なんて考えない主義なんだ……」
「……あなた……意地が悪いわね……」
  私に、彼が訪れることを拒むことは出来ない。以降、ブリックヴィンケルがいつ発現する恐れがあるか分からないのだ。彼はそれを教えてくれるだろう。しかし、いつ完全にこちらの世界に定着してしまうか分からない。となると私達は出来うる限り早く、彼らの帰り方を探さなくてはならないのだ。そこで、それを渇望し、第三視点を持つ彼の力を借りることは、決して理不尽なことではない。
「……これは契約よ……私は、できる限りの速度で、あなたの帰り方を見付けてみせる……その代わり、あなたは持ちうる全ての情報を私に渡しなさい……」
「……了解……」
  言って、彼の瞳の雰囲気が変わる。栗山部長に戻ったのだ。彼は、虚ろな瞳のまま、こちらを見遣っている。完全に意識が戻る前に、ホクト君達に引き渡した方が無難ね。
  私は、そう結論付けると、彼の手を引いて、三人の待つ講堂へと向かった。

  ――視点。倉成ホクト。
  ……双樹祭は散々だったな……。なんでだか知らないけど、ブリックヴィンケルは降りてくるし、それもよりによって、物語のクライマックスで……いや……その件については不思議なことに、あんま何も言われなかった。なんでも、真に迫った沙羅の演技が素晴らしかったとか何とか……唯、最後が尻切れトンボだったのが難かなぁ……って、友達は言ってたけど何のことなんだか……。
  あと、散々の内訳としては……。
「あ〜〜!!  倉成先輩、見付ましたよ!  今日こそ教えていただきます!!  あの、終盤に乱入してきた、秀麗で端麗で美麗なお姉様は誰だったんです!?  あんな固くきつく、しっかりと抱き締め合うなんて、普通の関係じゃ出来ません!!  しかも、うちの生徒でもないのに制服着てたし……さぁ、白状して下さい!  ちなみにユウ、って人じゃないことは、裏を取って確認済みなので、その言い逃れは出来ませんよ」
「……」
  ……お母さんをたくさんの生徒に見られたのは、まずかったなぁ……この学校で見掛けた人が居ないことが、噂に拍車を掛けて、伝説の美少女としてファンクラブが出来たりしたって誰か言ってた。そこではお母さんは、某プロダクション所属のタレントで、この夏、一気に売り出すために、学校にはほとんど来てないって設定になってるらしい。
  ……あと、何年か前に先生に交際を迫られて自殺した亡霊、ってことにも一部ではなってるらしいけど……噂は止めようとして止められるもんでもないし、暴走させるだけ暴走させた方が終結も早いだろうな……もうすぐ夏休みで良かった……。
「聞いてるんですか、倉成先輩!?  黙秘権は、犯罪者に認められた権利なんて、ありがちな言い訳は聞きたくありません!  そんな先輩には幻滅で殲滅で絶滅ですよ!!」
「……ぼく、殺されるの……?」
  とりあえず、揚げ足を取って矛先を変えてみようかなと思った。
  ……そして、そのことを思いっきり後悔した……。
「ああぁぁ!!  そういうこと言うんですか!!  人のそういう細かい言葉じりを突っ込むなんて、人としてありえません!!  ……分かりました……今日は、みんなで打ち上げの予定でしたけど、倉成先輩だけ尋問タイムにします。私の取り調べは陰険でネチネチでじっとりしてますので、覚悟下さい」
「え、え〜っと七草ちゃん……そういうのは、みんなにも迷惑かかるし、今度に――」
「いいえ。みんな知りたいんです!  沙羅先輩だと飄々とかわされるのは目に見えてますから、押しに弱そうな倉成先輩を攻めろというのは満場一致で決まりました」
「……」
  ……ある意味、残酷な部なんだよな……うちって……。
「さあ、先輩。化学準備室を借りてますから、行きますよ。脅迫の材料には事欠かない、尋問には最高の場所です」
「……」
  ……諦めた……こうなったら、架空の設定でもでっちあげよう。後々、突っ込まれたら、冗談で済ませばいいだろう。
  ぼくはそう心に決めると、手を引く七草ちゃんについていった。

  ぼくと沙羅の学園生活は、まだ、始まったばかりだ――。
   

                  了
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