静寂、という言葉がある。辞書を引いてみると、辺りが静かな様子、とある。つまり、無音状態を指すだけの言葉で、字面に含まれている寂しいなどという意味は無い。
 だけど、この熟語は的を得ていると思う。人が静けさの中で感じるのは、寂しさ、孤独感、恐怖、切なさ――安心感を覚える人も居るのだろうけど、過半数は負の感情に支配されるはずだ。人は本能的に静寂を嫌う。それはぼく達も同じだ。
 四男六女――ここに、たしかに人は居る。だけど静かだった。慣れていないと言ってしまえばそれまでなんだけど、あまりに異質な空気だ。喩えるのなら、煮詰まりきって無言状態の会議室にでも放り込まれた感じ。居心地が悪いったらありゃしない。それは皆も同じらしく、そわそわとした感じで、自分の仕事を黙々とこなしている。いつもならどんな作業だって楽しいのに、今日は違っていた。
 それはあたかも、ここが演劇部であることを否定しているかのような違和感だった――。

 ……ま、要するに七草ちゃんが風邪で休んでるってだけの話なんだけどね……。


「……ふわぁぁ……」
「……三島先輩。少しは真面目にやったらどうです?」
「……そうだな……」
 川崎に促され、三島はかったるそうに腰を上げた。何だかあの二人にも、いつもの切れが無い気がする。
「……で。沙羅は地面に這いつくばって何してるの?」
「……ココに教えてもらった、くらげごっこ〜……」
「……だらけてるだけじゃない?」
「……そうかも〜……」
 ……駄目だ、こりゃ。
「……困ったものだね……七草君、一人が居ないくらいで」
「……でも、七草ちゃんって半年前まで居なかったんですよね?」
 数ヶ月前に編入してきたぼくに確たることは言えないけど、一年生である以上、その可能性が高い。
「……慣れって恐いね……日常はそこに在ることが当然のものに変質していき、そこにそれが存在していなかった時のことを過去のものにしてしまう……逆もまた然りだけど……人生哲学かな?」
「……新澤会長のことですか?」
「……ホクト君……言うようになったね……」
 ちょっと毒を吐いただけで、部長と目を合わせづらくなってしまう。
 ……小心者だよね、ぼくって……。
「……仕方ない。今日はこれまでにしよう。こんな状態で続けても意味が無いし、怪我をするのも恐いしね。明日までに集中力を取り戻しておくように」
『は〜い』
 間延びした、やる気の無い声。ここは本当に演劇部なんだろうか……。
「あ、ホクト君。時間があればで良いんだけど、七草君の所に寄ってもらえないかな? 無理しない程度に早く復帰して欲しいって伝えて欲しいんだけど」
「いいですよ」
「ナナの家?」
 沙羅は、器用に耳をピクッと反応させると、ゆっくり立ち上がった。
「そう言えば行ったこと無いな〜。私も行こっかな〜」
「あ〜、沙羅君。君にはちょっと頼みたいことがあるんだ。経費をコンピューターに打ち込んでいたんけど、どうしても分からない部分を教えて欲しいんだ」
「……そう。なら仕方無いね。お兄ちゃん、一時の別れでござるよ……」
 何やら大仰な物言いで、ついでに言えば、目に涙なんか浮かべている。
 演劇部に入って、余計なスキルが上乗せされた気が……。
「それじゃホクト君。よろしく頼むよ」
「……?」
 部長が去り際に、あまり慣れていない感じで片目を閉じたのは何だったんだろう……?


 七草ちゃんの家は、浅川高校から徒歩で十五分程の閑静な住宅街に佇んでいた。
 高校は地理的条件と制服で選んだと言うだけあって、あっと言う間に着いてしまった感じだ。実際には、ぼく達のマンションと比べて、五分程しか変わらないのだけど、起伏が無いのが大きいに違いない。
 何とはなしに、そんな意味の無いことを考えてみた。
「……」
 右手を差し出し、呼び鈴の突起部分を軽く押す。間延びした電子音が家中に浸透するまで、再び顔を上げ、家全体を眺めてみる。
 大きさで言うなら中の上くらい。庭も、家庭菜園が楽しめるくらいの広さがあり、それなりに裕福であることが伺える。外壁は、目が痛くなるほど真っ白に塗り固めてられていて、屋根は橙と赤の中間みたいな色。朱色って言うのかな。
 まあ、典型的な西洋風の二階建てっていうことだ。ある意味、七草ちゃんに似合いすぎてる気がしないことも無い。
「は〜い」
 若干、機会掛かった女性の声が、呼び鈴から響いた。七草ちゃん……かな……?
「新聞勧誘と怪しげな新興宗教、あ、それと排水管なら正常なんで間に合ってますよ」
「……」
 絶対に七草ちゃんだ。
「……ぼくだよ」
「……朴君? 中学の時、クラスメートだった?」
「……」
 新手の冗談なんだろうか……?
「……倉成だよ。演劇部の――」
「……」
「……」
「……え゛え゛ぇぇ〜〜!?」
 不意に、怒声にも似た大声が耳に突き刺さり、次いで、ドタバタと言う木の板を叩き付けるような音が響いた。多分、家の中を走り回ってるんだと思う。病人が何してるのさ?
「あぁ!! 倉成先輩、今、ちょっと部屋とか散らかってますんで、少し待って下さい! 帰っちゃ駄目ですよ!」
「え……いいよ。様子見に来ただけだし、あまり気を遣ってもらっちゃ、身体にも良くないだろうし……」
「そういう訳にはいきません! 折角来て頂いたお客様を門前で帰すなんて、笹山家の名折れです!!」
 キーンと言う、安価なスピーカーを通す時に発生する独特の高温と共に、七草ちゃんの声がぼくの脳を直撃する。……これだけ元気なら、少しくらい平気かな……?
 七草ちゃんの厚意を無視するのも悪い気がしたので、ぼくは素直にお呼ばれすることにした。


「……それで、身体の方はどうなの?」
 ソファに座ると、色々と気を遣わせてしまいそうなので、通されたリビングに立ち尽くしたまま、そう問い掛けた。
 七草ちゃんが着ている物は、厚手のクリーム色をしたトレーナーに、下はジャージの様な同色のズボン。タートルネックで、手や足の裾部分にかなりの余裕があるところを見ると、見た目より、やっぱり保温性を重要視しているのだろう。
 まあ、四十度近い熱があるくせに、格好を付けるためだけに、一回り小さいランニングシャツ一枚で繁華街に消えた前科がある三島に比べれば、かなり賢明な判断だ。
「問題ありません。朝、計ったら微熱があったんで、お母さんに止められただけで、今はもう、元気元気です」
 言いながらも、少しふらついている。無理をしているのは一目瞭然だ。
「駄目だよ、風邪を甘く見ちゃ。ほら、部屋で寝てよう」
 七草ちゃんの部屋は二階にあるらしいので、手を引き、廊下にある階段に導こうとする。
 だけど彼女は、そこに根を生やしてしまったかのように、その場から動こうとしない。
「……でも、折角倉成先輩が来てくれたのに……」
「また来てあげるよ。今度は、沙羅や三島と一緒に、ね」
「……」
 途端――彼女は顔を俯けた。表情は見えないけど、何だか今にも泣き出しそうな――。
「……分かりました。でも一つだけ我が儘聞いて下さい……」
「え……?」
 あまりに真剣で、そして寂しそうな顔をする七草ちゃんに、ぼくは唯、その言葉に従うことしか出来なかった。


「……そうだったね。まだ、七草ちゃん達に会って四ヶ月も経ってないんだね。あっという間だった気もするけど、かなり長いこと一緒に居る気もするよ」
「倉成先輩は、これがあと一年以上は続く予定です」
「……ちょっと怖いかも……」
 軽く、苦笑した。
「そう言えば、初めて会った時、倉成先輩、何て言ったか憶えてます?」
「……たしか、『げ、元気だね……』だったかな?」
「その通りです。もう少し、気の利いたことは言えなかったんですか?」
「はは……」
 七草ちゃんの言葉一つ一つに、ゆったりと反応する。
 何のことはない。七草ちゃんの我が儘って言うのは、母親が買い物から帰ってくるまでの数十分、話相手をするってだけの話だ。もちろん、七草ちゃんは自室のベッドで大人しく横になったままで。これがぼくの出した条件だった。
「まあ、今にして思うと実に倉成先輩らしくて良いと思います」
「……どういう意味?」
「言葉そのままです」
「……」
 褒められてるのかどうか、物凄く微妙なんだけど……。
「……それにしても……」
 勉強机に付属している椅子に腰掛けたまま、何とはなしに部屋を見回した。
 白い壁、淡いクリーム色の絨毯とカーテン、橙色のベッドシーツ。それに、部屋に並ぶ小物や家具類も黄色系の柔らかい感じで纏められている。
「……何だか、物凄い七草ちゃん、って感じの部屋だね」
「……どういう意味です?」
「言葉、そのままだよ」
「む……」
 意地悪く言い返してみた。七草ちゃんが顔を顰めているのを見ると、ちょっとした達成感と共に、背徳感も覚えてしまう。
「……あれ?」
 不意に、本棚の上に立て掛けられている物に目が止まった。腕を伸ばし、手にとってみる。許可を取るのを忘れたけど、飾ってある以上、見られて困る物でもないだろう。
「これって……夏合宿の時の?」
「そうです」
「……」
 それは、何処にでもあるごく普通の写真立てだった。そこに収められているのは一枚の写真。一月程前、夏休みを利用して行った演劇部夏合宿の一コマだった。
 ぼく、沙羅、ユウ、七草ちゃん、三島、川崎、部長――。見慣れた顔、そして見慣れた日常。この写真に懐かしさを感じるってことは、ぼくはこの中に居るんだよね……。
「……?」
 本棚の上にはもう一つ、写真立てが飾られていた。その中に居るのは、少し幼い七草ちゃんと、青年と中年の間くらいの男性が一人に、女性が二人。
 片方の女性には見覚えがある。七草ちゃんの母親だ。そこから推察して、男の人は父親なのかも知れないけど、もう一人の女性は……?
 外にはねる、肩口まではない黒髪。年齢にあまり相応しくない、快活そうな笑顔。何処かで見たことある気もするんだけど……。
「ああ。それ、うちの両親と、その友達と一緒に撮ったんです」
「そうなんだ」
 気にはなったものの、あまり突っ込まないまま元に戻しておく。あまり、人の家の事情に足を踏み込むのは良いことではないだろう。
「……ねえ、七草ちゃん。ちょっと思ったんだけど、何で演劇始めたの?」
 夏合宿の写真を見た時に沸いた疑問だ。憶えている限りだと聞いたことは無い。
「七草ちゃんの演技力って群を抜いてるし、何でそんな一生懸命なのかな、って」
「そんなこと無いです。私の演技なんて、沙羅先輩とそう変わらないです」
「……沙羅は……何て言うか、天才だから……」
 いくら素質があって、それなりに努力してきたと言っても、あの若さで世界一の称号を得る人間はそうそう転がっていない。別の分野でも、適性があればそれなりにこなしてしまうのが、その手の人種だ。
「でもそういう人が居ると燃えるじゃないですか。ああ……やっぱり私達凡人は、何十倍も頑張らないと追い付けないんだって」
「はは……でも、ぼくは努力できることも才能だと思うよ」
「そうですかね? でも私、努力って言葉、あまり好きじゃないんですよ。だって、上手くなりたいなら、当然すべきことなだけですから。苦しいって思うこともありますけど、『私、今、努力してる〜』って感じじゃないですね」
「……」
 やっぱり、物凄い情熱だ。
「あ、それで演劇を始めた理由ですね? 小六の時、両親とある劇団の公演を見に行ったんです。それで凄く燃えちゃって……単純ですよね」
 七草ちゃんはそう言って、はにかみ笑いを浮かべた。
「始めるきっかけなんて何でもいいんじゃないかな? 重要なのは続けることだと思うよ」
「そうですね。これでも結構頑張ってきたのかも知れません。一応、中学の時、小さな賞、貰いましたし」
「へえ〜。賞状とかメダルみたいなのあるの?」
 部屋の中を見回してみる。それっぽいものは見当たらないけど……。
「貰いましたけど、クローゼットの中に放り込んでありますよ」
「……何でまた?」
「何か、自慢してるみたいで嫌じゃないですか。それに私、過去には拘らない女なんです」
「そ、そう……」
「だから、倉成先輩の女性関係も気にしません」
「……」
 それは現在進行形だから気にして欲しい……。
「え〜っと……それで、七草ちゃんが行った劇団って、有名なところなの?」
「劇団フライング・ワールドです」
「フライング・ワールド……?」
 あれ……何処かで聞いたことある気が……?
「分からなければ、日本語に訳してみて下さい」
「……?」
 フライング、飛ぶ。ワールド、世界。飛ぶ世界……飛世……。
「……飛世?」
 ちょっと待って……。
「あ、ひょっとして、あの飛世巴の……?」
 一応演劇部所属のぼくだけど、そっちの方面はかなり疎かったりする。飛世巴は、そんなぼくでも知ってる名女優だったりする。
 そしてその彼女が座長を務める劇団フライング・ワールドは、日本の物としては数少ない、世界に通用する力を持つ劇団らしい。
「あ、そう言えば……」
 先程の、七草ちゃんと一緒に写っていた女性をまじまじと見詰める。間違い無い。外側にはねる、肩口までは無い黒髪。隠し事が出来なさそうに思える程、豊かに変化する表情から生まれる柔らかい微笑み。彼女は、飛世巴だ。
「あ、言ってませんでしたね。お母さんの旧友らしいです。結構、頻繁に会ってたりします」
「そうなんだ……」
 何だか、七草ちゃんのルーツを垣間見た気がする。
「すっごく良くしてくれるんですよ〜。直接演技指導を受けたことは無いんですけど、何度も招待券くれたりして。やっぱり上手い人の演技見るのって、勉強になるんです。もう、何て言うんですか。すべての演者が作品のためだけに演じてるんですけど、わざとらしい部分は全然無くて、すごく自然なんです。流れるように話は進んで、ぐいぐい惹き込む魅力があって、もう終わったのを理解できないくらい、余韻の時が恍惚感で一杯なんです」
 捲くし立てるように、熱っぽく言葉を紡ぐ。何て言うか……とっても生き生きしている。
「……何だか凄いね。ぼくも一度くらい見に行こうかな」
「当然です。先輩、自分が演劇部だって、忘れてませんか?」
「はは……」
 ……否定しきれないところが、ちょっと寂しい……。
「ひょっとして七草ちゃんの夢って、飛世巴みたいになることだったりするの?」
 他愛のない、流れの中で自然に生まれた質問だった。
 だけど七草ちゃんは、その言葉を聞いた途端、表情を強ばらせ、言葉を詰まらせる。その想定外の反応にぼくは戸惑い、視線を合わせづらくなってしまう。
「あ、あれ……?」
「……違います」
「え……?」
 あまりにも声に力が無かったので、思わず問い返してしまう。
「……私にとっては、飛世さんだって通過点です。私が目指すのは、人類の歴史で今までに無い、そしてこの先も絶対に現れない、最強の女優になることなんですから……」
「……七草ちゃん?」
 言葉そのものは強がっているけど、やっぱり弱々しい。明らかにさっきまでとは違う。
「……何でもないです。ちょっとはしゃぎすぎて、疲れただけです……やっぱり、風邪の時は大人しくしてなきゃ駄目ですね……」
「……」
 半身を起こし、いわゆる体育座りのまま、そう口にした。
 その様はまるで、砂で作ったお城の様で……触れただけで崩れてしまいそうな程、脆く、そして儚く思えた。
「……ごめんなさい」
「……何で謝るの?」
「……私、嘘つきました。別に、疲れた訳じゃないです……」
「……」
 もちろんそんなことは分かっている。だけど、どんな言葉を返して良いか、分からなかった。
「……話……ぼくじゃ聞けない?」
 ありきたりの言葉しか口に出来ない自分が、少し嫌いになった。
「……いいんですか?」
「当たり前だよ。ぼくは七草ちゃんの先輩だから。まあ、入部したのはぼくの方が後だけどね」
「そう……ですよね……」
 力無く、言葉を紡いだ。
「……別にそんな大した話じゃ無いんです……この前飛世さんに会った時、劇団に入らないかって誘われただけで……」
「え……?」
 劇団フライング・ワールドに……?
「――って、もしかして、めちゃくちゃ凄いことなんじゃない?」
「……そんなこと無いです。凄いのは劇団と飛世さんで、私は唯、ジュニアの一人として演技を学んでみないかって言われただけです」
「……」
 謙遜はしてるけど、全く見込みが無い人にそんな無責任なことを薦めるとも思えない。
「……飛世さんは私のこと、本当に小さい時から知ってるみたいですし、中学の時も何回か大会に足を運んでくれました……実は高校に上がる時にも一度、誘われたんですけど……」
「……断ったの?」
「……何だか怖かったんです……今まで同じ歳くらいの人達とやってきただけなのに、いきなり大人の中に入るのが……もちろん同年代の人も居るんでしょうけど……」
 きゅっと、膝を抱える腕に力を篭めた。
「……でも本気で女優を目指すなら、専門的な指導をしてくれて、競い合う相手も居る劇団の方がいい気もするんです……多分、そういう意味で、飛世さんはまた誘ってくれたんだと思います……」
「……」
 目を合わせるのが気まずいのか、七草ちゃんは何があるわけでもない窓を見詰めている。
「……それでも迷ってるの?」
「当たり前です!」
 不意に顔をこちらに向けると、声を張り上げた。ぼくは思わず、身体をビクつかせてしまう。
「……当たり前じゃないですか……」
 今にも泣き出しそうな声を上げると、うな垂れた。もう、これ以上の言葉は必要無かった。
「……七草ちゃん」
「……はい」
 小さく返答した。
「ぼくにいいアドバイスは多分出来ない……でも、一つだけ言えることはある。
 七草ちゃんが決めなきゃいけないことなんだよ、これは」
「……はい」
 何者も寄せ付けない排他的な沈黙は、ぼくがこの部屋を出るまで続いた――。


 翌日――体育館講堂にて。
 今の時間は午後三時四十二分。六限目が終わるのが二時五十五分で、H.Rがあるから、放課となるのは、早くても三時十分くらい。そこから体育館に向かうので、一番乗りでも着くのは三時十五分くらいになる。後は全員が揃うまでのんびりして、活動開始は結局、三時半以降になることが多い。これがうちの大まかなタイムスケジュールだ。
 そして、今ここに揃っているのは、四男六女――つまり、昨日と同じメンバーだけだった。
「……おい大悟。笹山、今日は来てたんだろ? 授業だけで帰るとか、言ってなかったのか?」
「……別に聞いてませんけど」
「……もしかしたら来ないかもしれないよ……」
「……何だ、そりゃ?」
「何となく……ね……」
 何とは無しに、無責任な言葉を漏らしてみる。どちらにせよ、彼女が顔を見せないなんて有り得ないって分かってるのに……。
「……倉成……まさかお前、昨日何かしたんじゃないだろうな?」
「……ぼくは何もしていない……いや……出来ないんだよ……」
「??」
 偽らざる本音だ。ぼくに出来ることなんて、本当に何も無い。
 ぼくは恐らく呆けているであろう三島を放っておいたまま、唯、体育館の入り口を見詰めていた。
「あ……」
 彼女は小走りでやってきた。
 白いブラウスの上にねずみ色のブレザーとスカートを着込み、青い棒ネクタイに黒い靴下、それと学校指定の上履き――いつもと、何一つ変わっていなかった。
「お、遅れてすいません。ちょっと担任に捕まっちゃいまして――」
「……いや、七草君はいつも早い方だからね。これくらいじゃ、帳消しにもならないよ」
「……それってつまり、週一くらいなら遅刻してもいいってことですか?」
「……七草君……」
 軽口を叩いて、部長にたしなめられる。見た感じはいつもと変わらないけど……。
「あ、倉成先輩、おはようございま〜す」
「……今、夕方に近いけど……」
「ちょっと業界人、気取ってみました」
「そ、そう……」
 な、何だか、無理してはしゃいでるみたいにも見えるけど……。
「それでですね。昨日の話なんですけど……」
「!」
 不意を突かれ、心臓が爆ぜてしまうのではないかと思うほど強く鳴った。
「やっぱりやめました。私、後二年、ここで頑張ります」
「へ……?」
 あまりにあっさり結論を導かれ、間の抜けた声を上げてしまう。
「色々考えたんですけど、詰まる所、指導してくれる人とか、切磋琢磨って、自分に対する言い訳の気がするんですよ。もし私が女優になれなかったとして……それを理由にするなんて、何か格好悪くありません?」
「う、うん……そうかな……?」
 な、何。この急転直下……。
「……って言うか、物凄い自信だね……」
「あれ、知らなかったんですか? 私、自信家なんですよ」
 さらりと言い切った。
「それに飛世さん、言ってたんです。本物になりたかったら、恋の一つくらいしてこいって。だから私、演劇部に残ります!」
「……え……それってどういう――」
 ぼくの言葉は、七草ちゃんの純粋な眼差しによって遮られてしまう。
「と言う訳なので、これからも宜しくお願いします。倉成先輩♪」
 満面の笑みを浮かべ、そう言葉を紡ぐ。こうなったら、ぼくに出来ることなんて――。
「……お帰り。七草ちゃん」
 それに相応しい、極上の微笑みで応えてあげること。それだけしかないと思った。


                               了
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