八月十八日。夏合宿二日目。
「……」
  ぼくの起床時間は何故か、正確だ。特に意識しない限り、六時五十分に目が覚める。
  時計を見てみると、六時五十一分。誤差が二分以上あったことは今までに無い。
「よぉ、倉成。遅いお目覚めだな」
「……起床七時。朝食七時半でしょ?」
「相対的に、だよ。例え三時に起きたって、最後なら遅い目覚めなんだ」
「はいはい」
  三島の言葉を聞き流すと、布団をたたみ、押し入れにしまう。時計をもう一度見ると、六時五十五分。朝御飯までまだ時間あるし、どうやって時間潰そうかな……。
「……え?」
  ……六時……五十五分……?
  あああ!!  忘れてたぁ!!
「うぎゃああぁ!!」
  不意に、悲鳴が響き渡った。
  方向は女の子達の大部屋。声の主は多分、七草ちゃんだろう。
「しまった……」
  反省するのは後回しだ。とりあえず、被害の拡大を防がないと。
  ぼくは思考するよりも早く、足を動かし始めた。
「な、なんだ!?  今の声は!?」
  廊下で、上から下りてきた桑古木と合流する。だけど、のんびりと説明する時間さえ惜しい。ぼくはすぐさま、大部屋のふすまを引き開けた。
  誰かが着替え中などというお約束な可能性はあるけど、その場合はぼく達がボコボコにされるだけで済む。……桑古木には悪いけど……。
「七草ちゃん、大丈夫!?」
「く……倉成先輩……助けて……うぎゃぁ、沙羅先輩!  関節はやめて下さい!  うぐ……頚動脈、絞めるのもやめて……オチます……」
  状況を解説しよう。
  寝ぼけた沙羅が、七草さんに襲い掛かっている。以上。
  ……いや、『それだけかよ』と言われると返す言葉も無いけど……。
「七草ちゃん、ごめん!  沙羅は毎朝、六時五十五分になると、半起きになって、こうなるんだ。言うの忘れてた」
  両手を合わせ、平に平に謝る。その七草ちゃんは、泡を吹いて、白目をむいている。
  ちなみに、他の女の子五人は、窓際に退避している。薄情だが、最良の選択だ。こうなったら、お母さんクラスでないと止められない。
「……沙羅の寝起きが悪いのは、ユウに聞いてたけど、ここまでとは思わなかったんだよな……最初の朝は、ホント死ぬかと思ったよ……」
  折角、LeMUからみんな生きて帰ってきたのに、翌朝、実の妹に殺されるなんて、笑えなさすぎる。
「な、なにいぃぃ!!!」
  不意に叫び声を聞いた。振り返ると、そこにはいつの間にか三島が立っている。
「お前、普段、沙羅ちゃんと同じ部屋で寝てるのかぁ!!?」
「あ、うん。うち、二部屋しかないし……別に兄妹なら普通でしょ?」
「んな訳あるかぁ!!」
「……そうなんだ」
  知らなかったな……。
「おい、ホクト。んな話より、どうするんだ。このままだと、お前の後輩、死んじまうぞ」
「……桑古木、何とかしてくれない?」
「何でおれが……つっても、俺しか居ないのか……畜生……やっぱ、無理にでも優の奴、連れてくんだったな……」
  ぶつくさ言いながらも、二人の元へと歩み寄る。
  今、沙羅は誰も見たことのないであろう関節技を極めている。しかし残念なことは、被験者に意識が無いため、威力のほどが分からないところだ。
  ……って、呑気に解説してる場合でもないんだけど……間が持たなくて……。
「ほら、沙羅、起きろ。ホクトで秋香菜でチクワだぞ」
  桑古木は二人を無理矢理引き剥がすと、顔をペチペチと叩いた。
  カウンターの正拳を軽くさばく辺りは流石だ。
「うみゅ……」
  不意に、沙羅の目が半開きになった。お、ちょっと覚醒したかな。
「パパ〜……今度の休みこそ、忍者村に連れてって〜……」
  言って、いきなり桑古木に抱き付いた。
「こら、バカ沙羅。俺は武じゃねえ!  桑古木涼権だ!」
「みゅ〜……パパ〜……大好きだよ……むにゃ……」
  目を半開きにさせたまま、沙羅は腕に力を込めた。この抱き付き攻撃は、一見、男にとって、たまらなく嬉しいもののようにも思えるが、それは甘い。ぼくはこれを食らって、肋骨にヒビが入ったことがある。桑古木だから平然としているが、並の人間であれば、悶絶して、転げまわっていてもおかしくない。
「みゃぁ……パパ〜、パパ〜、パパ〜……」
「……つうか、お前、実は嫌味でやってんだろ!!」
「……」
  ……いや、そこまでひがまなくても……。
「ああぁ!  こら、桑古木!  マヨから離れなさい!!  あんた、前から怪しい、怪しいとは思ったけど、やっぱりそういう趣味が……」
  ……この声の主は、ユウだったりする訳で……ま、こういうお約束な展開もありなのかな……。


  二日目の予定は、シーン毎の稽古だ。忘れてるかも知れないけど、これは一応演劇部の合宿だから、少しはやらないと様にならない。まあ、持って来た荷物が、台本と衣装数着くらいだから、本当に簡単な練習しかできない。でも、このホテル、一階の大広間にステージがあって、それなりの雰囲気が味わえるから面白そうだ。
「うげぇ……まだお花畑が見える気がします……」
  七草ちゃんの顔は未だにちょっとだけ蒼い。これだけ頻繁に、あっちの世界とこっちの世界を行き来してるんだから、きっと彼女にとって忘れられない夏合宿になるよね。
  ……こんな言い訳でもしないと、ぼくの中の罪悪感が拭い切れないんだよ……。
「お兄ちゃーん、見て見て〜」
  更衣室から飛び出してきた沙羅には、奇妙なものが生えていた。……いや、適切な表現かどうかは分からないけど、的外れでもないと思う。
  頭の上からは三角形の白い突起物。腰の後ろ側からは、同色で、ある程度の太さと長さを持った紐状のもの。どちらも、無数の毛で覆われており、非常に柔らかそうだ。
  ……世間一般には、ネコ耳、尻尾、と表現される。
  今度の話は、とある事情により両親がしばしば居なくなるため、一人暮らし同然の高校生――つまりぼくが、ある雨の日の夜、捨てられていた猫を拾ってきたところ、耳と尻尾の生えた女の子に変身して、ドタバタを起こすというもので――。
  ……正直、何がやりたいのかは良く分からない。これを提案した三島を深く問いただす気にもならず……又、これを通した栗山部長に軽い不信感を抱いてみたり……もしやツァイツがその時だけ面白半分で出てきたのではないかと勘繰ってみたり……。
  でもまあ、決まっちゃったものは仕方ないし、沙羅も可愛いから、深く考えるのはやめることにしてる。
「……それじゃあ、始めるよ。シーン二、幼馴染みの女の子に見付かる場面だ」
  ぼくと沙羅、そして七草ちゃんは、『はい』と返答した。
「な、な、なぁ!!  こら、雅彦!!  あんた、何、私に内緒で女の子なんか連れ込んでるのよ!!」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。何で、お前の許可が要るんだよ」
「うるっさいわねぇ!  私は雅彦の司法官なんだから、当然でしょ」
  実は、七草ちゃんはかなりの演技派だ。沙羅の能力の高さは解説するまでもないし、ぼくさえしっかりすれば、かなりレベルの高い劇に出来るので、やりがいはものすごくある。
「この娘ってば、何、訳の分からない耳なんかつけてるのよ!」
  言って、七草ちゃんは沙羅のネコ耳を掴んだ。
「いた、いたたた――」
「え……?  これ……まさか、生えてるの……?」
「いたい〜……」
  頭の耳を押さえながら、沙羅は涙目を作った。本当に上手い。演劇歴が二ヶ月に満たないと言っても、誰も信じてくれないだろう。
「雅彦〜。あの人がいじめる〜」
  甘えるように、沙羅はぼくの後ろに身を隠した。
「雅彦……あんた、まさか私よりその娘を選ぶなんて言わないわよね〜?」
  冷ややかな目と声で七草ちゃんは言い放った。……疑似とは言え、三角関係って重いんだな……。
「ま、まあ、落ち着こうよ。別にこれはどっちを選ぶとかいう問題じゃなくて、ただこの娘が雨に打たれて可哀相だっただけで――」
「はぁ?  あんた、なに考えてるのよ。そういう場合は、警察、っていう正義の味方がいるのよ」
「いや……普通の発想だと保健所になっちゃうから、それは流石に可哀相な気がして……」
「……言ってることが分からないわよ……」
  ここで、二、三拍の間を取る。
「と、取りあえず二人とも座ってよ。お茶でも入れるからさ」
  そう言って、ぼくは一度、舞台袖に出る――予定だった。
  ドン。振り返った瞬間、沙羅と激突した。ちょ、ちょっと沙羅。ここは沙羅の方が避ける筋書きになってるでしょ。
「……パパ……?」
  ……え?
  自分の耳を疑った。見てみると、沙羅は呆けた表情のまま、ぼくのことを見上げてる。
「……一度、止めるよ」
  栗山部長の声で、ぼく達は一遍、演技を終了した。
「さ、沙羅先輩、どうしたんです!?  沙羅先輩が間違えるなんて、希少で希有で希代じゃないですか!?」
「え……あ、うん……ちょっと……ごめん……」
「……まあ、気にすることないよ。むしろ、沙羅君は間違えたことが無くて、少し怖いぐらいだったから。親しみが持てていいよ」
  軽い感じで、栗山部長は場を収めた。
  ……たしかに、沙羅だって人間なんだから、失敗の一つくらい有り得ることだとは思う。だけど、今のは演技を間違えた様には見えなかった。何か、他の原因で――。
「……ホクト君。始めるよ」
「は、はい!」
  ぼくの思考は、その一声によって中断された。


「うーん、みんな薄情だよねー。私達置いて海、行っちゃうなんて」
「でも、折角ここに来たんだから、やっぱり行かないともったいないよ。それにぼくは嬉しいけどな。ユウと二人っきりになれて」
「お、少年。今のポイント高かったわよ〜」
「そ、そう?」
  ぼくとユウは、今、屋上にいる。他のみんなは、ユウが言った通り、海へ泳ぎに行った。
  昨日、あんな目に遭っただけに、ユウが乗り気になる訳も無く……そんなユウを、ぼくが放っておける訳も無く……二人して、近くで買ってきたお弁当を平らげていたんだ。
  ……だけどそれも大分、前に終わってしまい……ぼく達は何をする訳でもなく、まったりとした時間を過ごしていた。
  階段がある建物の壁に、ユウと肩を並べて腰を落とすのは、とてもいい感じに思えた。
「……退屈ね……」
「……何かする?  散歩とか、ちょっとしたゲームくらいしか思い付かないけど……」
「……はぁ〜……少年……君は本当に少年だね〜……」
「……ごめん……意味が分からない……」
  呆れ顔のユウに、そう聞き返した。
「……退屈を満喫できるっていうのは、とっても幸せなことなんだよ……それが大好きな人となら、なおさらだよ……」
  そう言って、ユウは自分の右手を、ぼくの左手に重ねた。その行為はとても自然で、まるで照れくささは感じなかった。
「……」
  ユウが、無言のまま、頭をぼくの肩に凭れかけてくる。
  ユウは、あの事件から少しずつ変わってきたように思う。もちろん、以前のユウを詳しく知っている訳じゃないんだけど、何となくそう思えていた。
「……このまま……ちょっと眠ろうか……?」
「……いいね……それも……」
  小さく呟いて、ユウの頭に自分の頭を凭れさせる。
  ユウの柔らかさと匂いと吐息を感じ、ぼくの心は安らぎに満ちた。
  コンクリートが産み出す無機質な小陰で、ぼく達はそのまま眠りについた。


「……」
  どのくらい眠っていたんだろう。ぼく達を覆う影が、それほど動いていないところを見ると、一時間か、そのくらいだとは思う。
  肩に頭を寄せるユウの寝顔は、年上とは思えないほどあどけなく、ぼくの口元は、意識しないまま、緩んでいた。
「……ホクト君」
  不意に、声を聞いた。
「……少しいいかな。大事な話があるんだけど」
  栗山部長のものだ。しかし、声だけでツァイツとの判別をつけるのは難しい。目を見れば雰囲気で大体分かるのだが、どうやら建物の向こう側に居るらしい。
「……ユウが寝てて、起こしたくないんで……後じゃ駄目ですか?」
  これはもちろん本音なのだが、探りを入れるためでもある。栗山部長本人なら、気を使って、後回しにするだろう。
「……本当に大事な話なんだけどね」
「……分かりました」
  ……ツァイツ、か……ユウ、ごめんね……。
  肩をすくめて、ゆっくり離れようとした。これで目が覚めなければ良かったんだけど、支えが無くなったことで、ユウの頭はかしいだ。
「……ん……?」
「……ごめん、起こしちゃったかな……ちょっと、部長と話があるんだ」
「……ん……分かった……」
  寝ぼけ眼のまま立ち上がると、階段を下りていく。
  ……少しふらついてるけど、大丈夫かな……。
「……で、何の用?  昨日は肝腎なとこで居なくなって、今日は人の大事な時間を邪魔して……いい身分だよね」
  先手を取って、嫌味っぽく言ってやる。
「……結論から言うよ。“彼”が来る」
「……ブリック・ヴィンケル……?」
  トクン――。心臓が高鳴った。
「ああ、今晩、午後十時五十一分、媒体はまた君だ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。ここにお父さんは来たこと無いし……」
「……もう一人いるだろう?」
「……桑古木?」
「ああ……彼は十六年前、この近辺に田中優美清春香菜と訪れている……目的までは興味無いけどね……」
  ……あの二人なら、BW発現計画絡みのことだとは思うけど……。
「今回は……ぼくとユウを?」
「……厄介な取り合わせだな、君達は……関係が似過ぎている……尤も、それは“彼”がそう仕向けたからか……」
  “彼”によって救われ、“彼”によって苦悩する自己矛盾を抱えた存在。ぼく達のことをそう評したいのだろう。
「……どうってことないよ。同じ行動を取らなきゃいいんでしょ?  同じ行動を取るより、よっぽど楽だよ」
「……そう言ってもらえると、僕も楽だけどね……ま、今回はそう厄介でもない。彼女とその時間、雑木林に行かなければいい……」
「……防砂林の?」
「そうだね……」
「……」
  簡単そうだ。そんなに遅い時間なら、意図的にでもなければ行かないだろう。……それよりも桑古木と田中先生がそんな時間に、何をしていたかの方にちょっと興味があったり……。
「……分かった。教えてくれてありがとう」
「……“契約”だから、礼は要らないよ……」
「……」
  ……こいつ、やっぱり、とことんいけ好かない。
「……そうだ。ついでだから、昨日の話の続きを聞かせてもらうよ。ぼくが特別だって?」
「……まあね……普通の存在だとは、自分でも思ってないだろう?」
「……」
  否定できない自分がいた。
「……君はキュレイ種をどう思う?」
「……?」
  昨日に引き続き、質問の意図が見えない。
「……驚異的な自己修復機能と、テロメアの再生により半永久的に活動を続ける不死の肉体……淘汰を繰り返し、環境に適応した者のみが生き残る自然界にとって、常識からかけ離れた存在だ……いや……生命に対する冒涜なのだといってもいい……」
「……言っておくけど、お父さんやお母さん達を侮辱する気なら、本気で怒るよ」
「……そんな意図はないよ……ただの一般論さ……」
「……」
  本音が見えない奴だ。
「……竹取物語を知っているかい?」
  いつも通り、話に脈絡が無い。
「……かぐや姫、でしょう?  龍の首飾りとか、燕の子安貝とか無茶な要求をする――」
「その部分は、どうでもいいんだけどね」
「……あ、そう……」
  ……せっかく、乏しい知識から引っ張ってきたのに……。
「……物語の最後はどうなるか知っているかい?」
「……たしか、月からの使者を帝が撃退しようとするんだけど、不思議な力で攻撃できなくて――」
「その後だよ……」
「……?」
「……かぐやは、帝に不老不死の薬を渡すんだ……だけど、帝はかぐやのいない世界に未練は無いと言い、駿河の国の山で、その薬を燃やしてしまう……その山が、不死の山、富士山の語源だという仮説は余談だがね……」
「……」
  話が見えてこない。
「……怖いとは思わないかい?  この物語は、平安時代のものだから、ざっと千年以上は昔のものだ……仮に帝がその薬を服用していたら、今でも生きているんだよ……そして、これからもずっと……」
「……それが……何だって言うんだよ……」
  怒りが、ふつふつと湧いてきた。婉曲的にバカにしているとしか思えない。
「……感情を昂ぶらせないでもらいたいな……本題はここからなんだ……今までにキュレイ種の様な生物種は存在し得なかった……仮に存在していたなら、今でも存在することになるが、その様な報告は今までにほとんど無い。それに、血液感染と粘膜感染しかしないとは言え、宿主を生かそうとするウィルスだ……長い生物の歴史の中で見れば、驚異的な速度で、感染者が増えていくのは自明だろう?  しかし、現在、キャリアは二十名に満たない……つまり、このウィルスが世に現れたのはごく最近のことだという結論になる……不自然さを感じるだろう?  それとも、偶然と片付けるかい?」
「……」
  考えたことの無い話だった。ぼくの答は……分からない。
「……君と妹さんは、そんな『不自然な種』と人間の間に産まれた『特別な存在』なんだ……この世にたった二人しかいないね……」
「……だけど……それと未来視とどういう関係が……」
  話の始まりは、そこのはずだ。全然、繋がりが見えない。
「……知的生命体とは残酷だよね……その、不自然な種である君の母親と、君達をそっとしておいてはくれなかった……だけどその機構は知りたいくせに、自分がなるのは御免だとは……知的好奇心……?  ふざけた話だ……」
「……」
  ぼくを無視して、キュレイの話を続けていた。だけど、この話の意図は見えた。ツァイツは、四次元世界の実験により、こちらに紛れ込み、帰れなくなった存在。そんな自分を暗喩しているのであろう。
「……それじゃあ、失礼するよ……今日はもう少し時間が残っているが、今晩も出てこなくてはいけないのでね……」
「ちょ、ちょっと待ってよ。未来視の話がまだ――」
「……」
  瞬間――瞳の雰囲気が変わった。また……逃げられた……。


「……はぁ……」
  部屋で寝転がりながら、大きく溜め息をついた。年寄り臭いと言われようと、自然に出るものは仕方が無い。
「……八時半……か……」
  晩御飯を終え、部のみんなは大部屋で何やら盛り上がっているみたいだ。だけど、ぼくはそんな気にもならず、だらだらと時間を潰していた。同じ退屈でも、ユウと一緒にいるのとでは、全然違うから不思議だ。
「おい、倉成。今すぐこっちに来い」
「……悪いけど、そんな気分じゃないんだ……」
  三島の言葉を素通りさせる。だけど、人の都合を考えてくれる様な奴ではない。
「まあ、そう言うな。実はな、肝試しをすることになった。組分けをするから付き合え」
「……三段論法で行くよ。うちの部のモットーは、自主性の尊重だ。そしてその肝試しは、計画に無い、突発的な提案だ。つまり、ぼくが乗り気でない以上、それを強制する権利はない。これで満足?」
「不満足だ。お前が参加しないと、沙羅ちゃんや笹山。それに、鳩鳴館女子大のお姉様方は参加しないではないか」
「……」
  ぼくは何なのさ……。
「と、言う訳だ。お前のくじを引かせてもらうぞ」
  言って、三島は手元の箱から、紙切れを一枚取り出した。
「ちょ、ちょっと!?  何、そんな勝手なことしてる――」
「……三番……ちっ……色男はクジ運まで強いのか……喜べ。お相手は、お前の彼女だ」
「え……?」
  その一言で、ぼくの思考は中断した。そして、気がついた時には、現場へと連れ出されていた……。


「はいはーい。それでは、ルールを解説させて頂きます。お忙しい中、お付き合い頂いた鳩鳴館女子大のお嬢様方には深い感謝の意を述べさせて頂きたく思い、ここで唐突ではありますが、それを形にするという意味で、僭越ながら歌などを一曲――」
「……三島先輩の話はくどいので、僕が端的に述べさせて頂きます」
  相変わらず、川崎の突っ込みのタイミングは絶妙だ。
「ルールは簡単です。先程引いて頂いたクジの数字が一致する方とペアを組んで頂きます。そして、その順番通りにこの防砂林の向こう側にある古い社へと赴いて頂きます。桑古木助手に先行して行って頂きますので、そこで、先程のクジを渡して頂き、代わりにカードを受け取って帰って来て下さい。そのカードが、その地を訪れた証、ということになります」
「へーい。では行ってきますな」
  やる気ゼロといった感じで、桑古木は後ろ手を振って、出発した。
「……では、今から十分後に、一番の方々から出発して下さい。その後の間隔は一組当たり五分でお願いします」
  やっぱり、こういう事務系の仕事は、部長と並んで、川崎に任せるのが一番だね。
「む〜。不満で一杯です〜。何でこういう萌え系イベントの相手が沙羅先輩なんですか〜。男の人の絶対数が少なすぎです〜。しかも一番手……この際、襲っちゃいますよ〜」
「……」
  ……ごめんなさい。ちょっとだけ想像しました。
「……昨日から思ってたんだけど……あの娘って変わってるね」
「……」
  ユウに言われたら、致命的だ……。
「……はぁ。でも良かったね」
「……何が?」
「マヨもホクトも楽しそう。ちょっと心配してたんだけど……これなら大丈夫そうだね」
「……」
  何だか、胸が一杯になった。
「……」
  ……あ、そうだ。時間だけは確認しないと……。
  まだ、九時前だった。ぼく達は三番手だし、よっぽどのことが無い限り、指定の時間、十時五十一分に防砂林の中にいることは無いだろう。
「うう……それでは行ってきまーす……」
「お兄ちゃん、なっきゅ先輩、行ってくるね〜」
  何だか、好対照な二人だった。沙羅は、何でか知らないけどノリノリで、七草ちゃんの腕なんかとったりしてる。
  ……そう言えば、ユウと異常に仲良いし、結構そっちの方も……?
「ホクト〜。何、にやけてるの〜?」
「え、あ、うん、何でもないよ」
  ……まさか、変な妄想してたとは言えない……。
「しっかし、みんな乗り気だよね。こんな子供騙しのイベントにさ。怖いわけ無いじゃない。未開のジャングル歩く訳でもないんだから」
「……多分、それユウだけだと思う……」
「……少年。そんなことでは、年上のお姉さんにあっさり惑わされてしまうから、この話をよく聞きなさい」
「……」
  ……もう惑わされてますけど……。
「あのね、みんな怖くなんて無いの。ただ、男の人に、キャーとか、怖いー、とか言って、可愛い自分を演出したいだけなんだよ」
「……そうかなあ……?」
「……分かった、分かった。じゃあ賭けをしようか」
「賭け?」
「そ。この肝試し中、私はずっと自分を演出するから、ホクトはそんな私を一回でも可愛いって思ったら負けね。ちなみに嘘ついたってすぐ分かるから、それは無意味だよ。負けた方は……そうだな……お約束だけど、どんなお願いも一つ、絶対に聞かなきゃ駄目ってことでいいわね」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
  それはぼくがめちゃくちゃ、不利じゃない。ぼくがどんなユウも好きなの知っててそんなこと言ってるでしょ。
「それに、その賭け、さっきの話とあんまり関係ないし――」
「……三番、倉成先輩、田中優さん。お時間ですので、出発して下さい。後がつかえてますから、揉め事は林の中で御解決をお願いします――」
  川崎の冷静な言葉に、何処からとも無く小さな笑い声が聞こえた。
  ぼくはあまりの恥ずかしさに、ユウの手を取ると、逃げる様にしてその場を走り去った。


「……はぁはぁ……な、何で肝試しで全力疾走しなくちゃいけないんだよ……」
「……」
「……大体、ユウが変なこと言うから……」
「……」
「……ユウ?」
  何か妙だ。林に入った途端、無口になって、心なし、身体が小さく見えるような――。
「ね、ホクト……」
  背はユウの方が高いのに、何故か上目遣いの様にして、ぼくのことを見た。
「……大丈夫……だよね……?  ホクトは私のこと護ってくれるよね……?」
  すがるような声で、ぼくに懇願する。ちょ、ちょっと、ユウ!?
「……」
  ……あ。そうか、さっきの賭け……。よおっし、そっちがその気なら乗ってやろうじゃない。
「行くよ、ユウ。心配しなくてもいいからね。ぼくが君を護るよ。これは約束だ」
  どこかで聞いたような台詞が口をついて出る。……ぼくって、やっぱり演劇の才能無いのかなぁ……?
「……?」
  足を踏み出そうとした途端、腕に負荷を感じた。見てみると、ユウが自分の腕をぼくの腕を絡めている。
「……本当に……信じていいんだよね……?」
  若干潤んだ瞳で、ぼくを見詰める。そんなユウを、ぼくはたまらなくいとおしく思い――って、そうじゃなくって!!
  駄目だ、駄目だ。これは演技なんだぞ。ユウのコケットリーで小悪魔的な部分が表層化してるだけで、真のユウはうろたえるぼくを見て、ほくそ笑んでいるに違いない……って、我ながら、何考えてるのか、良く分からないなぁ……。
「きゃあぁぁぁぁ!!」
  不意に、悲鳴を聞いた。この声は……七草ちゃん!?
「ユウ!  行くよ!」
「え、あ、うん」
  絡めた腕をそのまま引いて、走り出す。声の方向で当たりを付けて、あとは赤外線視力に頼る。視界は意外と開けているので、すぐに見付かるはずだ。
「……いた」
  眼前の針葉樹の根元が、うっすらと光っていた。そこには七草ちゃんが横向きで倒れている。
「七草ちゃん!」
  近くに寄り、身を屈める。すぐさま、呼吸を確かめるために、口元に手を当てる。正常だ。
  次いで、鼓動を確かめるために、左胸に手を――。
「くおぉら、ホクトォ!  わりゃ、何しようとしとんのじゃぁ!」
  バコッ。ユウの拳骨が後頭部に入った。あまりの痛さに、思わず涙目になってしまう。
「な、何って、救急救命のための、情報収集――」
「だからって、私以外の女の子に、そんなことしようとするんじゃないわよ!」
「……」
  ……ん?  今、さらりと嬉しい言葉、聞かなかったか?
「どいて!」
  ユウは、ぼくを押しのけ、七草ちゃんの状態を確かめ始めた。脈や瞳孔、顔色、気道の確認を手早く行なう――やはり、ぼくより専門的だ。
「……大丈夫……気を失ってるだけ……」
「そう……良かった……」
  ほっと一息ついた。
「だけど……一緒のはずの沙羅は……?」
「……」
「……」
  お互いに、黙り込んでしまう。だけど、考えているだけじゃ、何も進展しない。
  ぼくは思考することの優先順位を落とし、とりあえず足を動かすことにした。
「ホクト!?」
「沙羅を捜してくる!  ユウは、七草ちゃんを診てて!」
  振り返らずに、返事だけをする。頼れる情報は何も無い。あるとすれば直感だけだ。だけど、ぼくと沙羅の絆なら見つけられるはず。
  根拠の無い自信で、ぼくは不安を掻き消していた。
「……!」
  光を知覚した。正確には、人体の発する赤外線。赤よりも赤い、不思議な光。この力をこれほどありがたく感じることは、一生のうちに数度しかないであろう。
「沙羅……」
  そこに、彼女はいた。少し開けた広場のような空間。月明かりが差し込むその場所に、ぼくの妹は、唯、何をするでもなく立ち尽くしていた。
「良かった……すごく心配したんだよ……」
  後ろ向きの彼女に、そっと近寄った。
「……え?」
  信じられないことが起こった。ぼくが肩に手を掛けた瞬間、沙羅はゆっくりと振りかえって――ぼくの左の二の腕にナイフを突き立てたのだ。
  痛みより、驚愕より、何が起きたのか理解できなかった。事実として、沙羅がぼくにナイフを刺したことは分かっている。だけどそれ以上のことは、何も分からなかった。
「さ……ら……?」
「……」
  沙羅は無言のまま、ナイフを勢い良く、引き抜いた。
  鮮血が舞う。だけど、その事実さえ夢の中の出来事の様で……ぼくは呆然としたまま、膝をついて、傷口を押さえていた。
「……ふふふ……」
  不意に、沙羅の口元が緩んだ。……違う……沙羅じゃない……?
「……あなたは貴重なサンプルだけど、クセになりかけて危険な存在だから……ここで死になさい……」
  沙羅の声で、あまりに残酷な言葉が紡がれる。だけど、今のぼくにそれに抗うだけの気力は無く――唯、ナイフを振り上げる沙羅の姿を見上げることしか出来なかった。
「ホクト!?  マヨ!?」
  ユウの声を聞いた。……だめだ、ユウ……こっちに来ちゃ……。
「……ちっ……面倒ね……“見て”おけば良かったわ……」
  “沙羅”は、躊躇うこと無く、ナイフをユウに向けて投げ付けた。それは寸分違わず、ユウの胸元目掛けて、突き進んで行く。
「……!」
  カラン。ナイフが、地を転がった。タイミングは、絶対に躱せるものではなかった。それでも、ユウに刺さらなかったのは、一人の男が、手刀で叩き落としたためだ。
「か……ぶらき……?」
「ちくしょう……遅くなっちまった……」
  桑古木の右手からは赤い雫が滴っている。しかし、傷口は何事も無かったかのように、すぐさま塞がった。
「こん……にゃろう!」
  桑古木はぼくと“沙羅”の元に駆け寄ると、右手で“沙羅”に殴り掛かった。
  “沙羅”は後ろに飛び退き、それをすんでの所で躱す。
「ホクト、大丈夫か!?」
「あ、うん……わかんない……」
  腕の傷から流れる血はまだ止まっていない。キュレイ回復機構の一部が発現しているぼくの傷の治りは、常人よりかなり早いが、キュレイ種には遠く及ばない。
「ちっ――」
  桑古木は自分のTシャツの縁を千切り落とすと、紐状にして、肩口に縛り付けてくれた。
「血が止まるまで、大人しくしてろ!」
「あ……うん……それより……何が……?」
「……四次元人だ……ブリック・ヴィンケルでも、ツァイツ・フリュヒトリングでもない……第三の四次元人が沙羅に降りやがった……」
「え……?」
「くおぉらぁ!!  ツァイツ!!  隠れてねえで出て来やがれ!!  近くに居んのは分かってんだぞ!!」
「……」
  その言葉に呼応するようにして、ツァイツは奥の林から、姿を現した。
「……驚いたね……ここで君は登場するとは……実は、ヒーローものの映画とか意外に好きかい?」
「……優の読み……嫌な当たり方しやがる……」
「……どういうこと……?」
  訳が分からず、問い掛けた。
「……裏切りやがったんだよ……いや……俺も優も、完璧に奴のこと信じてた訳じゃないから、この表現はちと違うか……」
「……おやおや……信じてもらえてなかったのか……あまりに馴れ馴れしいのも、不信感を与えると思ったから、一歩引いてみたんだけど……難しいね、人間関係というのは……」
「第三視点保有者が、軽口叩いてんじゃねぇ!!  その気になりゃ、俺と優の会話なんか、いくらでも盗み聞けんだろ!!」
「……それは気付かなかったな……」
  ツァイツは、さらりととぼけてみせた。
「……それに裏切ったなどという言い回しは心外だな……僕と田中優美清春香菜との契約は、僕の持つ情報と引き換えに、彼女が、僕の帰り方を探すことだけ……嘘をつくことも、第三の四次元人に味方することも、僕の自由のはずだ……」
「嘘……?」
「ああ……今日、ブリック・ヴィンケルは降りてこない……君の注意を田中優美清秋香菜から離れない様にしておけば、妹さんを奪取しやすくなると思ってね……」
「……だけど……なんで沙羅に……ぼくじゃなくて……」
  刺されたことより、裏切られたことより、そこに衝撃を受けていた。クセになっているのは、ぼくとブリック・ヴィンケルで……沙羅は二度とも、その場に居合わせただけだ。
「……何だ……知らないの……なら、無理に殺そうとすることも無かったわね……」
  “沙羅”が、冷たく言い放った。
「……僕が、何故こちらの世界に紛れ込んだのかは知っているだろう?」
「それは……四次元世界での実験……」
  ツァイツの問い掛けに、そう答えた。
「実験の最終目的はね……四次元人が三次元世界に移住するためなんだ……」
「!!」
  ……なんだ……って……?
「……まあ、そう深く考えないでくれ……君達が火星への移住計画を考えているのと、同程度の話と思ってくれればいい……知的好奇心なんだろう……僕は興味ないけど……」
「……」
「だけど、こちらの世界で活動するためには媒体が要る……人間、という生物種の精神というのは、僕達と非常に似ているのだけどね……生憎、肉体がそぐわない……それは僕を見ればわかるだろう……?  僕は表に出る時間を極端に制限されている……」
「……」
  トクン、トクン、トクン。心臓の高鳴りが止まらなかった。この話の続きを聞いてはいけない。そう、直感が告げているように思えた。
「……そこで、四次元人の……まあ、君達で言うところの科学者は一計を案じた……ならば肉体を我々に適応するようにすれば良い、と……半永久的に活動し、また、驚異的な自己修復機能を持つ、完全な肉体へと……ね……」
「……!」
  まさか……まさか、まさか……。
「……そう……キュレイウィルスは、四次元人がばらまいたんだ……四次元人が、こちらの世界で活動するハードとしての肉体を産むために、ね……」
  ――ドクン。心臓が、爆ぜてしまうのではないかと思う程、強く鳴った。
「な……な……」
  言葉を紡げなかった。喉は限界まで渇ききり、嫌な汗が全身を湿らせていた。
  気分は――最低だった。
「……こんにゃろう!!」
  不意に、桑古木が駆け出した。一直線にツァイツの元まで寄ると、顔面を殴りつける。
  何かが折れる嫌な音と共に、彼の身体は地を滑った。
「……てめえら……」
  桑古木の怒りが、傍目にも見て取れた。桑古木の十七年はブリック・ヴィンケルによって決められたものだ。それだけはなく、彼らに自分の肉体を常人とかけ離れたものとされたのだと知ってしまったら、それは当然のことだろう。
  だけど――。
「桑古木、やめて!  ツァイツの身体は部長のものなんだ!  桑古木が本気でやったら、死んじゃうよ!」
「……安心しな……全然本気は出してねえよ……」
  ゾクッ――悪寒を感じた。目が異様なまでにギラついているというのもあるが、何よりもその体温だ。桑古木の身体から放たれている赤外線の量は、常人の五倍――いや、十倍はある。興奮状態が、一瞬で理解できた。
「……お喋りね……黙っていれば、殴られることも無かったんじゃない?」
  “沙羅”が口を開いた。
「……一応、契約だったからね……ただ、いつ言うかは、僕の自由って奴さ……」
  ツァイツは口元から流れる血を拭いながら立ち上がった。
「……それにしても……分からないわね……」
  “沙羅”は、言葉を続ける。
「……桑古木涼権……あなたは十七年前の事件の時に普通であれば死んでいた……それをキュレイウィルスによって生き延びて……一体、何の不満があるって言うの?」
「ふざけんじゃねえ!!  時間軸を含有してる存在のお前らに、生き死にについて諭されてたまるかよ……人間ってのはな……生きるためだけに生きてる訳でも、死ぬためだけに生きてる訳でもねえ!!  飯食って、バカやって、恋して、そして死んで――全部ひっくるめて“生”なんだ!!  死ねねえことがどんだけ重いか……てめえらは、一欠けらだって分かってねえんだ!!」
「……」
  “沙羅”は、無言で桑古木を睨み付けた。
「……沙羅から離れやがれ!  無駄なことして、傷付けたくねぇ!!」
「……面白いことを言うわね……その物言い……私に何のリスクも無く勝てるように、聞こえるけど?」
「あ゛?  キュレイの強さはお前らだってよく知ってやがんだろ!?  所詮は、サピエンス種程度の肉体しか持ち合わせてねえお前なんか、力で抑えられんぞ!」
「ふふ……阿呆ね……こいつは……」
  癇に障る含み笑いをした。
「……こ……の……!!」
  桑古木は、怒りに任せて、“沙羅”に襲い掛かった。
「……」
  “沙羅”は微動だにしない。いや、厳密に言えば、ほんの少しだけ――桑古木が“沙羅”の腕を掴もうとした瞬間、本当に少しだけ身体を横に滑らせた。それだけで、桑古木の右手は空を切る。
「な……?」
「……」
  無言のまま、“沙羅”は身体を反転させ、重心を桑古木の下に潜りこませた。そして、腕を掴み、桑古木を担ぎ上げる。いわゆる、一本背負いの要領だ。
「……!」
  ドサッ。桑古木の身体は容易く、放り投げられ、地に叩き付けられた。肉体的な損傷はほぼ皆無だろうが、精神的には大打撃のはずだ。
「……第三視点……過去を見透かし、未来を知る力……私にはあなたの動きが“見え”る……力で捩じ伏せようとしても、それは無意味よ……」
  ふふ、と、再び小さく笑った。
「……さて……やはり、あなた方は殺しておきましょうか……」
  “沙羅”がぼく達の方を見遣った。ユウは……腰を抜かしているのか、その場に座り込んでいた。
「くっ……」
  ぼくが……ユウを護る。それが、約束だ。
  ぼくは、利かない左腕を垂らすようにしながら、立ち上がった。
「……果敢……というのかしらね……意味も無いのに……」
  言って、“沙羅”は何処からともなく、ナイフを取り出した。そして、一瞬にしてぼくとの間合いを詰める。
「……!」
  ぼくは、躊躇した。彼女の外見が沙羅であること。そして、ぼくの記憶に、ナイフへの対応技術というものが存在しないこと。二つの要素が絡み合い、身体が一瞬硬直した。
「……」
  そんなぼくを横目に、“沙羅”はぼくの横を走り抜けてしまう。
「え……?」
  ……しまった!  狙いは始めから――。
「ユウゥ!!」
  身体を反転させ、地を蹴った。
  だけど、速度が充分に乗り切っている“沙羅”との差は開く一方だった。
  ――間に合わない。受け入れがたい事実を、ぼくが認識しようとしたその瞬間だった。
「……!?」
  “沙羅”の持つナイフが、ユウの前に滑り込んできた男の右胸に突き立てられた。
「ぐっ……」
「桑古木!?」
  桑古木は、一瞬よろめいたが、すぐさま体勢を立て直すと、“沙羅”の右腕を掴みに掛かる。呆気に取られていた“沙羅”であったが、気を持ち直したのか、それを躱し、間合いを取った。
「……ちっ……やっぱ、キュレイったって、痛えもんは痛えな……」
  ナイフの刺さった部位から、血が染み出し、シャツを赤く染め上げていく。
「か……かぶら……き……?」
  ユウの声は上擦っていた。
「な……何でよ!?  ……何で、私のために、そんな無茶するのよ!?  一つ間違ったら、死んじゃうかもしれないじゃな――」
「――やっかましい!!」
  ビクッ。桑古木の怒声に、ユウは身体を強張らせた。
「……お前は俺の親友、田中優美清春香菜の大事な一人娘だ!!  それが理由として充分じゃねえって言うんなら……一発ぶん殴ってやるから、顔、貸せ!!」
「……」
  桑古木の気迫に、ユウもぼくも気圧されてしまっていた。
「……それにな……お前にとって俺は、数ヶ月前に会ったばかりの変な奴かもしんねえけどな……俺はお前をヨチヨチ歩きの頃から知ってんだ……親父代わり……ってのは言い過ぎにしたって、こんぐらいしてやってもいいくらいの情はあるぜ……」
  言いながら、桑古木はナイフを引き抜いた。ニュル、という生肉を切り裂く嫌な音と共に、それは摘出される。しかし、それと同時に血が噴き出したのか、赤い侵蝕は速度を増した。
「な、何してるのよ!  そういう時は、専門の処置を施せる状態になるまで、抜かないのが常識で……すぐ、止血しないと――」
「俺に触るんじゃねえぇ!!!」
  ユウが桑古木の身体に手を掛けようとすると、桑古木は再び怒号した。
「……血液感染する……俺に……触るな……」
「あ……」
  ユウは、呆然とした面持ちのまま、膝をついてしまう。
「……心配するな……この程度じゃ、俺は死ねねえよ……ホクト、悪い……血止めだけしてくれ……」
「あ……うん」
  キュレイウィルスは、純粋なサピエンス種にしか感染しない。サピエンスキュレイ種であるぼくが手当てするのが、正しい選択だ。
  ぼくは、桑古木のシャツを脱がせると、それをそのまま傷口に押し当て、周囲の血管を圧迫させた。やはり、キュレイ種の回復速度は異常だ。ものの数十秒で、血は止まり、切り裂かれた肉が、くっついてしまう。
「……ひょっとして“見て”なかった?  油断はしない方がいいと思うよ……結構、奇跡って簡単に起こるものだからね……」
「……たしかにね……キュレイは……思っていたより、異質な肉体へと変貌した様ね……」
  ツァイツと、“沙羅”の会話が耳に入ってくる。
「……まあ、君がどうなろうと、関係ないけどね……僕は、あっちの世界に帰ることしか、興味ないし……」
「……」
「……?」
  “沙羅”は黙ったまま、顔を俯かせていた。
「……お兄ちゃん……なっきゅ先輩……逃げて……」
「!?」
  沙羅の声を聞いた。
「……意識の混濁、か……コードの半分しか僕達に適応していないサピエンスキュレイ種だから、どちらつかずになるのも当然の話……僕がこうして独立した人格を保っていられるのは、ほぼ全ての時間を栗山聖に与えている代償だというのは、君には言うまでもないかな?」
「……う……るさい……わね……」
「……それにしても、キュレイのコードを持ち、“彼”の媒体になったことで、第三視点が発現しかけているというだけの理由で、あの少年を殺そうとすると言うのは……狭量だね、あなた方は……。
  まあ、僕の意思を無視して、こちらの世界に紛れ込ませた君達に、人格的な行動を求めるつもりもないけどね……」
  わざとらしいほど大げさに、ツァイツは溜め息をついた。
「それより、どうする?  このまま放っておいたら、彼らに捕まるね……第三視点を保有してようが、拘束衣なんか着せられたら、身動き取れないよ……」
「……なら、最も適合する肉体を奪えばいいだけよ……」
  途端――沙羅の身体が、糸の切れた操り人形の様に、崩れ落ちた。
「沙羅!?」
「マヨ!?」
「……」
  ゾクッ。不意に悪寒を感じた。
  ぼくは反射的に地を蹴ると、ユウを抱きかかえて、地面を滑った。
  ヒュン――その刹那、後方で風の切る音を知覚した。
「……」
  桑古木が、ナイフを振り回したのだ。
「桑古木!?」
「……ふふ……悪くはないな……コード変換率、八十八パーセントと言ったところか……ハイブリッドの小娘よりは、よっぽどいい……」
  指の関節を鳴らしながら、確かめる様にして、“桑古木”は言い放った。
  ――最悪の展開だ。
「このクソアマ!!  勝手に人の身体奪いやがって!!  これだから、四次元人って奴は!!」
「……うるさいわね……そうそう。もうじきあなたの意思は封じ込められるから……言い遺すことがあれば、今のうちに言っておいた方がいいわよ……尤も、それを誰かに伝え聞かせることは、諦めてちょうだいね……」
「じゃっかましいぃ!!  これは俺の身体だ!!  四の五の言わずに返しやがれ!!」
  “桑古木”の口で、二つの人格が交互に言葉を紡いでいた。端から見れば単なる怪しい人だが、当人達は真剣だ。
「……ぐっ」
  判断するより早く、ユウの手を引いて、沙羅の元へと走り出した。“桑古木”の至近に居るのは、あまりに危険だ。
「……」
  瞬間――世界が揺らいだ。何が起こったのか、把握できない。
  気が付くと、ぼくとユウは地面に身体を叩き付けられていた。そして、その勢いを失わないまま、身体を地面に擦り付けられる。
「きゃっ!」
「くっ……」
  ぼくは強引に身体を反転させ、仰向けになると、力任せにユウを胸元に抱き寄せた。
  ズザザッ。背中が擦れる音がした。二人分の負荷が掛かっているだけに、痛みは半端ではない。
「……痛い……」
  沙羅が倒れているところまで滑ったところで、ぼく達の身体はようやく止まった。
  背中に走る痛みは、ぼくの人生で五指に入るほどのもので、状態を確かめる気にはとてもではないがなれない。
  でも、どうやらユウは無傷みたいだ。そのことにぼくは少しだけ安堵した。
「……ごめんなさいね……まだ、力の加減が分からなくて……」
  “桑古木”が、冷たく言い放った。どうやら、拳をぼくの頭に叩き付けるか何かしたらしい。唯、それだけだ。
  キュレイの、絶対的な“体”を思い知らされた。
「……それでも……」
  それでも、ぼくしかいない。ユウと沙羅を護れるのは、ぼくだけだ。
  ぼくはユウを胸の上から降ろすと、ゆっくりと立ち上がった。
「……ホクト……」
「……約束は、護るよ……」
  小さく、呟いた。
「……」
  スッ。不意に、眼前に男が立ち塞がった。
「……ツァイツ……?」
  予想外の行動だった。彼は、“桑古木”とぼく達のちょうど真ん中辺りに、立ち尽くしている。
「……どうしたの?  まさか、その子達の味方をするとでも言い出すのかしら?」
「……まさか……ただ、僕の契約を先に済ませてもらおうと思ってね……忘れられるのは御免だよ……」
「……ああ……四次元世界への帰還方法、ね……」
  途端――“桑古木”は、ナイフを投げ付けた。狙いは、ツァイツだ。
「……何の真似だい?」
  ツァイツは、平然とそれを人差し指と中指でつまみ、受け止める。
「……私達の意向は単純明解……私達以外に、この移住計画を知るもの全てを抹消すること……これで、納得してもらえた?」
「……やれやれ……」
  はぁ、と、ツァイツは大きく溜め息をついた。
「……ホクト。四次元人がこちらの世界の人間を媒体にするためにはね……媒体がその対象を意識していないことが絶対条件なんだ……」
「……!?」
  いきなりのツァイツの発言に、ぼくは戸惑った。
「……早く、妹さんを起こして教えてあげることだね……そうすれば、二度と四次元人の媒体になることは無い……」
「……な、なんだよ、いきなり……お前は結局、どっちの味方――」
「……言っただろ?  僕は君達の仲間になった覚えはない……僕は僕にとって最も有益な行動を取るだけさ……」
「……」
  ……信じていいのだろうか……?  だけど……この状況で他にすがるものは無いし……。
「……ユウ……沙羅を起こして……それと、ユウも今、桑古木の中に居る四次元人を“意識”して……」
「わ、分かった……」
  ……ユウなら、沙羅を起こすのに、そう時間を取らないだろう。問題はそれより“桑古木”をどうするかで――。
「……え?」
  信じられない光景を目にした。ツァイツが、“桑古木”に向け、走り寄っていたのだ。
  キュレイの肉体と第三視点。そのどちらをも保有する存在に、勝ち目などあるはずないのに――。
「……くっ……」
  バンッ。ツァイツの拳が“桑古木”の横面を殴り付けた。そして、その身体をよろめかせる。
「え……?」
  理解できなかった。“桑古木”は今、ほとんど避けようとしなかった……?
「……あなた……この身体に、何をしたの……?」
「……さぁ?」
  “桑古木”の問いに、ツァイツは空とぼけた。
「……身体が……利かない……」
「……それは御愁傷様……」
  ツァイツはとぼけたまま、何度と無く殴り続ける。
  な、何でこんなことに……?
  ドガッ。ツァイツ、渾身の一撃が、“桑古木”の鼻の下に入った。いわゆる人中と呼ばれる、人体の弱点の一つだ。キュレイに効果があるのかは謎だが、これによって“桑古木”の身体が地面に叩き付けられたのは事実だ。
「……まあ、お互い様……かな……?  僕も君を信用していなくてね……さっきこの男の胸に刺さったナイフには麻酔薬を塗っておいたんだ……こうなるときちんと“見て”おかなかった君が悪いね……」
  言いながら、“桑古木”に馬乗りになる。そして、左手のナイフを喉元にあてがった。
「……キュレイが如何に不死の肉体を持ち合わせていようと、首が胴から切り離されてはどうかな?  ……それに、この男は不完全なキャリアだしね……まあ、こんなナイフでは一思いに、と言う訳にもいかないけど、それは勘弁してもらいたいな……」
  チラリ。ツァイツはぼく達を一瞥した。
「……あの娘も目を覚ましたし……逃げ場はないね……さよなら……」
「くっ……」
  ツァイツは、まるでアイスピックでも扱うかのように、ナイフを振り下ろした。
「……」
「……」
「……」
  空気が凍りついた。いや、空気だけではない。時間さえ止まったかのように、ぼく達はその場に唯、呆然と立ち尽くしていた。
「……良かったね……君は運がいいよ……」
「……て、てめえ……“奴”が逃げなかったら、本気で、喉に突き刺す気だったろ!?」
「……それも仕方ないだろう?  人身御供ってのも、カッコイイと思うけど……」
「だぁっほぉ!!  ココを遺して、死ねるかぁ!!」
「え……?」
  状況を把握できない。ツァイツが、“桑古木”の喉に当たる寸前でナイフを止めて……今の“桑古木”は、桑古木?
「……君は、キュレイを甘く見ているね……たとえ不完全なキャリアでも、首を切り離したくらいでは死ねないよ……まあ、そのまま数日放置したら、どうなるか分からないけど……」
「……」
  さらりと、気持ちの悪い話をしてくれる。
「か、桑古木……なの?」
「ああ……間違いねえよ……倉成武を尊敬して、田中優美清春香菜の親友で……そして、中学生の八神ココを好きな、三十路越えのちょっと危ない奴……おれは、桑古木涼権だ」
「……」
  ぼくは安堵していた。それはおそらく、ユウや沙羅も同じだろう。
  緊張の糸が切れたのか、ぼくの身体は、膝から崩れ落ちた。それを、ユウと沙羅が慌てて支えてくれる。
  ……何だか……ものすごく疲れた……。
「……それで結局……あの四次元人は、何処に行ったの……?」
  問い掛けの相手は、もちろんツァイツだ。
「……四次元世界に帰ったんだと思う……彼女の目的は偵察が主体だったからね……だけど、もうこっちの世界には来ないかも知れない……」
「……何で?」
「……来たくても来れないだろう?  全てのキュレイキャリア、並びにハイブリッドが“意識”してしまえば、彼女らには媒体が無い……まあ、過去に干渉する可能性はあるが、その瞬間に、現在は無数に分岐するから……今の君達には関係ないね……もちろん、僕の様にサピエンス種を媒体にすることも可能だが……それはあまりに危険過ぎるんだ……」
「……危険?」
  何か、表現に違和を感じた。
「……今回の一件で分かったんだ……四次元人がこちらの世界に来て、帰るためには、キュレイのコードを持つ肉体を媒体……と言うより、中継点にしなくてはいけない……ブリック・ヴィンケルや彼女が容易に戻れて、僕がいくら望んでも戻れなかった理由が、ようやく分かったよ……」
「……つまり……それって……」
  ツァイツが四次元世界に帰るためには、キュレイコード保有者が媒体にならなくてはいけないということだ。
「……ざけんな。誰が、てめえのために、身体差し出すかよ……」
  桑古木の声は、怒りに満ちていた。
  だけど……。
「……いいよ、ツァイツ……ぼくを媒体にして、帰りなよ……」
「!!」
  ユウ、沙羅、桑古木。三人が、同時に驚愕するのが見て取れた。
「ホクト、なに言ってやがる。こいつは自分のことしか考えてない。今まで、何してきたか忘れた訳じゃないだろ?」
「……分かってるよ、それくらい……ぼくだって、ツァイツのこと好きな訳じゃないし……」
  小さく呟いた。
「……だけどね……少し考えてみたんだ……ツァイツは何で、必死なのか……理由はすごく単純……一人が嫌なんだよ……そのことは沙羅やユウ、桑古木だって分かるでしょ?」
「それは……」
  さしもの桑古木も、口ごもってしまう。
「……ぼくも一人は嫌だ……お母さんと離れて、沙羅と別れて……だけど、今、折角、一緒に暮らせるようになったのに、また、一人になれって言われたら……やるせなくて、切なくて……おかしくなるかもしれない……。
  ……そんな想いを、誰にもさせたくない……相手は関係ないんだ……」
「ホクト……」
「お兄ちゃん……」
  二人の女の子を不安にさせないため、ぼくは笑顔を作った。
「……本当にいいのかい……?  一応言っておくけど、僕は遠慮しないよ……それに、今度媒体になれば、君にとっては三度目だ……四次元世界に引きずり込まれるかもしれないし、或いは、第三視点がかなりの形で覚醒するかもしれない……または意識が完全に混濁して、別人格になってしまうかもしれない……そのことは覚悟してるのかい?」
「……覚悟なんかしてないよ……だけど……ぼくは決めたんだ……」
「……やはり、君は阿呆だな……」
  はぁ、とツァイツは溜め息をついた。
「……ホクト……」
「ん……?」
  ユウの声に、ぼくは振り返った。
「……さっきの賭け……私、勝ったよね……だからこれが私のお願い……絶対に……絶対に『倉成ホクト』として、私達ともう一回会うこと……」
「……ユウ……賭けなんか無くても約束するよ……だって、そうでしょ?  ぼくはユウや沙羅と別れるなんて、考えたことも無いよ」
「……ホクト……」
  ぼくは再び、微笑んだ。
「……ツァイツ……いいよ……」
  言って、ツァイツに対する“意識”を外す。良くは分からないが、受け入れようとすればいいのだろう。ブリック・ヴィンケルの時の様に、流れに身を任せれば――。
「……」
  栗山部長の瞳の雰囲気が変わるのと同時に、意識が混濁した。
  ブリック・ヴィンケルとは異質な意識の奔流。
  それが、人格の相違によるものなのか、或いは始めて自分の意志で受け入れたからなのかは分からない。だけど、ぼくのすべきことに変わりはない。
  つまり、こちらの世界に強い執着を持つこと。ツァイツが、四次元世界に帰りたいと願うのと同様に、ぼくがこちらに留まりたいと想い続ければ、意識は次第に分離する。それは双樹祭の時に学んだことだ。
  お父さん、お母さん、沙羅、ユウ――。
  次々と、大事な人を思い浮かべ続ける。時たま、強すぎる流れに負けそうになるけど、無理には逆らわない。喩えるのであれば、海の底に根を張る藻のようなもの。ぼくは、ぼくの中に流れる意識を、唯、受け流し続けていた。
「……」
  ――パンッ。何かが弾ける音がした。
  いや、実際に空気は振動していないのかもしれない。だけど、ぼくには、そのような音が聞こえたような気がした。
「……」
「……ホ……ホクト……なの……?」
「……」
  ぼくは、その声に反応して、俯かせていた顔を上げた。
「……ぼくは……ぼくだよ……」
  ゆっくりと言葉を紡ぎ、彼女達に微笑みかけた。
  そんなぼくに、沙羅が一言だけ。
「お兄ちゃん……お帰りなさい」


  八月十九日。夏合宿最終日。
「うぬぬぬぬ……沙羅先輩、これは一体どういうことなんですか!?  倉成先輩と部長はボロボロになって帰ってくるし、沙羅先輩は沙羅先輩で林の中で勝手に居なくなっちゃいますし、肝試しはうやむやで終わっちゃいましたし……納得の出来る説明をお願いします!!」
  七草ちゃんは、相も変わらず元気一杯。いつもと変わらぬ調子で、沙羅に絡んでいた。
「……元気だな、あの娘……」
「……桑古木……前に沙羅とユウは、二人でも姦しいって言ったことあるでしょ?」
「あ、ああ……言ったかな?」
「……彼女は一人でも姦しいんだ……」
「……すごいな、それは……」
  林での一件の後、ぼく達は何とかホテルまで戻って来た。日付も既に変わっていて、この喧騒は人様に迷惑なように思えるが、関係者はほぼ全員、この大部屋に集結してしまっている。
  うちの部だけではなく、鳩鳴館の人達まで、だ。どうやら、ゴシップ好きの集団らしい。普段、ゼミ等で田中先生とどのような会話が繰り広げられているのか、実に興味深いところだ。
  ――で、ぼくはと言えば、うつ伏せになったまま、桑古木に背中の手当てをしてもらっている。砂利が無数に食い込んでいて、痛々しいことこの上ないらしい。流石に、この状態のぼくを詰問する気にはならないらしくて、沙羅に矛先が向いている訳だ。
「決めました!!  もう、沙羅先輩に倉成先輩は任せておけません!  これからは私が面倒を見ます!!」
  おおぉ、と、何やら喚声が上がった。
  ……この程度のことで盛り上がれるのって、平和だよなぁ……。
「ナナ……その言葉……覚悟して言ってるのよね……?」
  指関節をコキコキ鳴らしながら、七草ちゃんを睨み付ける。
  ……沙羅……真面目に怖いよ……。
「二人とも、何、言ってるの。あれは私のよ」
  沙羅の横に立っていたユウが横槍を入れた。
  ……あれ扱いですか……。
「……ホクト……お前、もてるな……」
「……何、言ってるのさ。あれは女の子同士でじゃれてるだけでしょ?」
「……本気で言ってやがるな……やっぱ、お前は武の息子だな……」
「??」
  意味が分からなかった。
「……よし。こんなもんかな……」
  ぼくの左腕には、包帯が巻かれていた。そして背中の傷は異物を摘出した上で、水で洗い、エタノールで消毒し、ガーゼで傷を覆って、メッシュタイプのシールで固定してある。ぼくも詳しい訳ではないが、適切な処置なのだろう。まあもちろん、明日にでもお医者さんに見てもらうつもりではいるけど。
「倉成先輩!」
「お兄ちゃん!」
「ホクト!」
「……はい?」
  身を起こし、Tシャツに頭を通すと、目の前には三人の女の子が居た。言うまでもないけど、七草ちゃん、沙羅、ユウ、だ。
「倉成先輩、一つの仮定をします。今、このホテルが大火事になったとして下さい。ああ、ですが、私とこのお二方は腰を抜かしてその場を動けません。
  さぁ、倉成先輩。誰か一人だけ担いで逃げるとしたら誰を選びますか」
「……は……はぁ……?」
  な、何の話?
「……って言うか、女の子三人くらいなら、頑張れば運べるけど……」
「仮定に文句はつけないで下さい!」
「……ご、ごめん……」
  ……ぼく、何で謝ってるの……?
「倉成先輩……先輩は可愛い後輩を見捨てる真似なんてしないですよね?」
「そ、それは当然だけど……」
「お兄ちゃん……ずっと一緒だって言ってくれたよね……?」
「う、うん……」
「ホクト……私、信じてるからね……」
「……」
  ……あのー……何故、この様な展開に……?
「ははは。じゃあ、頑張れよ、色男」
  桑古木は、ぼくの肩をポンと叩くと、傍観者側に入っていってしまった。
  ……ええっと……この場合は……。
「……」
  ぼくはとりあえず、無駄に爽やかな笑顔を作った。
「は?」
「ぬ?」
「へ?」
「……」
  そして、彼女達が一瞬、戸惑った隙をついて廊下へと逃げ出す。
  これぞ、お父さん直伝、『女同士のケンカは、絶対に食すな』だ。
「ああぁぁ!!  倉成先輩、それは卑怯で姑息で人間失格ですよ!」
「お兄ちゃん、ずるい!」
「くおぉらぁ、ホクトォ!  わりゃ、それでも男かぁ!?」
  三人の声が聞こえるが関係ない。ぼくは足を止めずに、廊下を駆け抜けた。
  ……って言うか、ついさっきまでこんな安穏としてなかったはずなんだけど……。
「あの臆病者を追えぇ!!  そして殺せぇ!!」
「……それは言い過ぎです」
  三島の煽りと川崎の突っ込みが聞こえた。
  そしてその直後、みんなも又、部屋を飛び出してくる――。


  ……ま、そんなこんなで、ぼく達の夏合宿は、何とか終了した。
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