第三視点――。
  つまりは、三次元的な視覚能力のこと。
  過去視、未来視のことだと思われがちだが、厳密には少し違う。空間的な二次元的視覚に、時間軸を加えて、平行世界を同時に知覚する視点が、過去視、未来視として発現する。
  同時に、空間的な三次元視覚能力も存在する。『サイコロの六面全てを同時に見る能力』と例えた人がいるが、適切な表現だろう。二次元的な視覚能力では決して見ることは出来ない。
  第三視点を持つ者――ブリック・ヴィンケル。四次元人、と呼ばれることもあり、三次元的な知覚能力を持つ。彼らにとって空間軸と時間軸は等価なものであり、ぼく達、三次元の存在には不可能な、過去視、未来視を行なうことが出来る。
  第三視点――過去を見透かし、未来を知る力。
  『何をバカなことを』と思う人が居るかもしれない。
  しかし、『地球は太陽の周りを回っている』。『物体は重さに関わらず、等速度で落下する』。『エネルギーと物質は等価だ』。『世界は全て不連続である』。これらが世に公表された時、すぐさま受け入れた人はどれだけいるのだろう。
  第三視点は、科学の新たな知見なのだ。将来、世の中に何らかの影響を与えるのかもしれない。
  しかし、現在においては脅威的な力であることは否めない。基本的に過去や未来を見ることしか出来ないが、分岐を促す程度のことは出来る。俗な言い方をすれば、過去や未来、そして現在を、ある程度変えられるのだ。
  それに、過去や未来を“見る”ことが、どれだけ有用なことか、少し想像力を働かせれば、誰にでも分かる。
  そして、第三視点を保有するもう一つの存在――時の亡命者『ツァイツ・フリュヒトリング』、通称、ツァイツ。
  四次元世界の“実験”により、三次元世界に紛れ込み、帰れなくなった存在。現在は、県立浅川高校演劇部部長、栗山聖(くりやまひじり)と肉体を共有している。但し、栗山部長は、そのことに気付いていない。
  ぼく――倉成ホクトは今、そのツァイツと対峙していた。
  理由は――彼の“第三視点”を借りるため。
「……見えるものは、降り注ぐ水滴……それと、決して緩やかとは言えない、空気の流れ……」
「じゃあ、その翌日からだと?」
「……白い砂浜に照り返す陽光……そして、深い青をたたえる天空……空気も穏やかだね……」
「ふむ……すると、十七日からがいいでござるな」
「そうみたいだね」
  何のことはない。演劇部で行なう夏合宿の日取りを決めるため、天気の具合を聞いていたんだ。
  『第三視点を天気予報に使うんじゃない!!』って言われそうだけど……この程度の使い方だから、罪悪感も少ないわけで……競馬とか、株とかで大儲けしてみようよ。夜も眠れなくなるよ、絶対に。
  それに未来は常に分岐を続ける、Yなんだ。どこに辿り着くかを決めるのは、ぼく達なんだ。第三視点は絶対の存在なんかじゃないんだよ。
「……」
  ぼくは、自分に対する言い訳をし終えると、ツァイツに引っ込んでもらうことにした。
  さて、栗山部長に、日程の報告をしないとね。


  八月十六日、夏合宿前日。倉成家にて。
「ホクト。お前ら、明日から合宿らしいな」
「あ、うん。二泊三日の予定だから、十九日の夜には帰るよ」
  夕食時、ぼくはお父さん――倉成武の問いにそう答えた。別に隠していた訳ではないのだが、タイミングが合わず、直接は伝えていなかった。
「はぁ〜。学生は気楽そうでいいな〜。いや、おれもつい四ヶ月前までは、かなりの放蕩学生だった気がするんだが、一体いつから家族との団欒が一番の楽しみなアットホームファザーになっちまったのかなぁ」
「ははは……」
  ……たしかに、この短期間にこれだけ生活が一変する人ってそういないかも……。
  まあ、ぼく達家族、みんなそうなんだけど。
「パパってば、なに言ってるのかな〜。本音ではママと二人っきりになれて、めちゃくちゃ嬉しいくせに」
「そ、そんなことは無いぞ。やはり、家族というものだはなぁ、全員揃って初めて幸せな訳で――」
「そ、そうよ、沙羅。私と武はあなた達あっての私達なのよ――」
  お父さんとお母さんはあからさまに動揺した。やっぱり、この二人は良く似ている。
「あ、そうだ、お父さん。合宿の場所って、海沿いの古いホテルみたいなところなんだけど……行ったことないよね?」
「ん?  ああ、ブリック何たらの件か?  無いと思うぞ。まあ、すっげえガキの頃まで憶えてる訳じゃないが、そんな時のことは関係ないんだろ?」
「うん、ぼくと錯覚しなければいいんだよ」
「……良く分からんが……おれより桑古木に聞いた方がいいんじゃないか?  最初の時は、あいつと見間違えたんだろ?」
「そうだけど……ほら。桑古木って……」
「……そっか」
  桑古木の十五歳以前の記憶はまだ戻っていない。
  事件終結後、催眠療法や、セラピーなどによって、記憶を戻す方法は模索されている。
  ……ユウは『電気ショックや、薬物療法で一発なんじゃない?』なんて言ってるけど、そういう訳にもいかず……。
  それに何より、桑古木自身が乗り気ではないのだ。十七年もの間、お父さんになることだけを目指して生きてきた桑古木にとって、自分の過去は開けてはいけないパンドラの箱のように思えているのかもしれない。
  当分の間は、彼の思うようにさせてあげようというのが、みんなの意見だ。
「……それじゃあ、お父さん。あと、よろしくね」
「ああ、存分に楽しんでこい。おれらも存分に楽しむ」
「……」
「……」
「……」
  この、お父さんの放ったオヤジギャグがお母さんの怒りを買い、大惨事へと発展したんだけど……まあ、これはいつものことだし……。


  八月十七日。夏合宿初日。駅前にて。
「あ、倉成せんぱーい、沙羅せんぱーい。おっはようございまーす」
  開口一番、元気一杯に挨拶してきたのは、一つ下の後輩、笹山七草(ささやまなぐさ)ちゃん。いつもテンションが高くて、たまに振り回されることもあるけど、演劇部では一番仲が良い娘だ。
「いい天気になって良かったですよね〜。私、ゆうべはわくわくの興奮で、ドキドキでしたよ」
「そうなんだ」
  とりあえず相槌だけを打って、辺りを見回してみる。演劇部は、ぼく等を含めて、男子四人、女子七人、引率の先生一人を加えた総勢十二人。女の子があと一人来ていないだけで、他は全員いる。
「よぉ、倉成。相変わらず、沙羅ちゃんと仲、良いな」
「……本当に。勘繰りたくなりますね」
「まぁね。でも、兄妹の仲が良いのは、当たり前だし、いいことだよ」
  二人の少年が、ぼくに話し掛けてきた。
  気さくに語り掛けてきた体格のいい方が、三島淳平(みしまじゅんぺい)。少し、控えめで、線の細い方が川崎大悟(かわさきだいご)。二人とも、いわゆる悪友と言っていい。ちなみに、三島は二年で、川崎は一年生だ。
「お……来たね。それじゃあ、行くよ」
  最後の女の子が、小走りでやってくる。まだ、予定時間の五分前だ。時間に対してきっちりしてるのが、この部のいいところの一つかな。
「それでは、元気良く行きましょ〜!」
  七草ちゃんの声が、駅前に響いた。立秋を過ぎたとはいえ、辺りにはまだ、強い夏の陽射しが降り注いでいる。
  ぼく達の、夏合宿は、ここから始まった。


「うわ〜。倉成先輩、海!  海ですよ!  青くて、ブルーで、ブラウですよ、本当に!!」
「いや……それは、ここが目的地なんだし……」
「ぬぬぬ。その物言いは無いですよ。人間、初心というものを忘れては行けません。
  ああ……母なる大海原。私達は、ついに還ってきたんだ……ぐらいの気持ちで、この状況に接しましょうよ」
「……」
  ……七草ちゃん、始めからこのテンションで、本当に三日も持つんだろうか……?
「でも、本当に、綺麗な海だね。何で、こんなにすいてるのか不思議なくらい」
「ああ、それは、ここって一応、私有地なんですよ。何でも、半世紀くらい前に、土地バブルの成金が、ここいらの土地を買い占めて、リゾート地化しようとしたものの、あっさり、不良債権化して、買い手がつかずに放置され続けたそうです。
  で、今の持ち主とちょっと知り合いだったんで、格安で借りたんです。そういえば、言ってませんでしたよね」
「うん。聞いたのって、場所と、宿泊費の話ぐらいかな?」
「感謝して下さいよ、倉成先輩」
  言って、七草ちゃんはぼくの腕を取ってきた。
  え……?  いや、それはまずい……。
「ふふふ……」
  背後から、聞き馴染みのある声が聞こえてきた。どこか刺のある、重々しい含み笑い。
「ナ・ナ〜。人のお兄ちゃんに、何してるのかな〜?」
  もちろん、沙羅のものだ。振り返り、見てみると彼女の額には青筋が……。
「さ、沙羅先輩!  私は前々から言っていますが、やはり、兄妹というものはですね、仲がいいに越したことはありませんが、限度というものがあってですねえ……」
  言葉だけは、はっきりしているようだが、沙羅とは目を合わせていない。
  ……強がり切れないなら、始めから大人しくしてて欲しいな……。
「くおぉらぁ、ホクトォ!  わりゃ、人の見てないところで、何やっとんのじゃぁ!」
  まったく見当違いの方向から、再び、聞き馴染みのある声を聞いた。
  え?  この声って……。
  ドグォ。もう一度振り返った瞬間に、何か巨大なものが飛んできた。いや、ぼくは反射的にそれを躱したんだけど、七草ちゃんに直撃して……ぼく達は、もつれる様にして、砂浜に転がった。
「いてて……って、いきなり何するんだよ、ユウ」
  そう、声の主は、ぼくの恋人、田中優美清秋香菜。彼女は自らの肉体を弾丸とし――まあ、要するに飛び膝蹴りをかましてきたのだ。
  膝が額と正面衝突した七草ちゃんは、完全に白目をむいて、あちらの世界を旅行中だ。
「それはこっちの台詞よ!  ホクト……あなた、マヨだけじゃ飽き足らず、他の女の子にまで毒牙を――」
「わ、わ!  そ、そういう誤解を招く言い方は――」
  どうやら、かなり興奮しているらしい。言っていることが無茶苦茶だ。
「ムキー!  本気で怒ったわよ〜!!」
  ……その後、十数分もの間、ぼくはユウと激しい格闘戦を繰り広げざるを得なかった。
  演劇部の誰かが止めてくれても、良さそうなものなのだけど、彼らはむしろ楽しんでいて……どうやら、最後には賭けまで始めていたらしい。
  ……他人事だと思って……。
「いや〜、ホクト。たっぷりと堪能させてもらったぞ♪」
「……」
  満面の笑みを浮かべてそう言い放つその男に、軽い殺意などを抱いてしまったが、とりあえずは、傷の手当てが先だ。
  顔の引っ掻き傷を消毒して、と……。
「……で、桑古木。何で、二人してここにいるのさ?」
  そう、ぼくの殺意の対象は桑古木涼権。手当てを手伝ってくれるのは嬉しいけど、その笑みは本気で、神経に障るんですけど……。
「ん?  ああ、優んとこのゼミ合宿の引率だな。……全く、つい最近復帰したくせに、何でもう学生がいるかね。かなり前から、根回ししてやがったな」
「……その田中先生は?」
「何か、忙しいって理由でサボタージュ。で、男一人ってのもまずいんで、秋香菜にバイト頼んだ訳だ。ったく、俺だって、院試で、忙しいってんだ」
「……院試?」
  初めて聞く話だった。
「ああ、決めた。おれは大学院に行く。そして、第三視点を研究する」
「……」
  何やら、話が見えてこない。今更……って言うのはあれだけど、田中先生と一緒に、ずっとやってきたことなんじゃ……?
「あ……ひょっとして、自分の過去を探るため?」
  不意に思い付いた。第三視点を使えば、LeMUに来る以前に、どこで何をしていたか、分かるかもしれない。
「違う、違う。対抗策をちょっくら、検証したくてな」
「……対抗策?」
  再び、見えてこない。
「そうだ。宣言しておく。おれはココをブリック・ヴィンケルの奴に渡すつもりはない。そこで、敵を知り、己を知れば、百戦危うからずということでな。徹底的に研究し尽くすことに決めた。正直、この十七年は、武になり切るので精一杯だったからな」
「は、はぁ……」
  冗談とも本気ともつかない内容だが、目は爛々と輝いており、どうやら大真面目らしい。
「……はっ!」
  背後から、声が聞こえた。どうやら、七草ちゃんが息を吹き返したらしい。沙羅と他の女の子が介抱していたのだが、大事には至っていないらしい。虚ろな瞳をしてはいるが、元気そうだ。
「……く、倉成先輩!  な、何かさっき、恐ろしいものを見ました!  はっきりとは憶えてはいませんが、鬼女の様に歪んだ形相の女性を――」
「……」
  ピクッ。ユウのコメカミが動いたのが、遠目でも分かった。ああ……せっかく少し落ち着いてきたんだから、余計なことは言わないで欲しいな……。
「ホクト〜。結局、この娘は何なのかしら〜?」
「あ、え〜っと……この娘は笹山七草ちゃん。演劇部の後輩で……。
  七草ちゃん。こちらは田中優――うん。ユウって、前に話したことあるよね?」
「……ユウ……ユウ……?  ああぁ!!  倉成先輩の恋人で、フィアンセで、内縁の妻な女性ですか!?」
「……は?」
「ちょ、ちょっと、七草ちゃん。彼女だとは言ったけど、そこまでは――」
「くおぉら、ホクトォ!  わりゃ、どないな風に、人のこと紹介しとんのじゃぁ!!」
  わ、わ。また暴発した。
「はいはい、秋香菜。これ以上は、皆さんに迷惑だ。そろそろ仕事すんぞ」
  桑古木が、ユウの腕を掴んだ。いくらユウが狂暴でも、キュレイキャリアである彼に敵うはずも無い。駄々をこねる小猫の様に、力で押さえつけられてしまう。
  ……って言うか、止めようと思えば、すぐに止められたの……?
「それじゃ、皆さん。御迷惑をおかけしました」
「いえいえ〜。俺達も堪能させて頂いたんで〜」
  三島が、明るく返答した。
「……そう言えば、ユウ達、どこに泊まってるの?」
「ん?  おれらもさっき着いたんだが、何でも、土地成金が放置した古ホテルらしくてな――」
「……」
  ……何か、どこかで聞いたような……。
「あ、そう言えば、持ち主の人が、どこか大学の人にも貸すみたいなこと言ってましたけど、ひょっとして……」
「……」
  大方の予想通り、ぼく達の目的地は、完全に一致していた。


「……結構、綺麗なもんだね。もう少し、ボロボロだと思ってたよ」
  通された四階の和室は、少し汚れていたが、埃の量や、畳の具合からして、明らかに半世紀も放置されていたものではない。人の手が加えられているのは一目瞭然だ。
「お金だけは有り余ってる時代に造られたらしいですからね。何でも、『百年は壊れない』設計にしてあるらしいです。そこに目を付けた今の持ち主が、改装して、来年オープンするって言ってました。まあ、この立地条件なら、ほんと、放置され続けていたのが不思議なくらいですから」
  ぼく達が泊まる場所は、普段は、その作業員達が寝泊まりする場所らしいのだが、盆休みで、管理人の老夫妻以外、誰もいない。
「それじゃ、倉成先輩。三十分後に、海で会いましょ〜」
「うん」
  ぼく達、男性陣と先生の五人はこの八畳間。そして、女性陣は、一つ部屋を挟んだ、この階の南端、十五畳の大部屋に泊まることになった。ちなみにこの先生は、置物みたいなもので、よっぽどのことが無い限り、干渉してきたりはしない。好き勝手出来るので、そういう意味では、いい先生だ。
  ユウ達、鳩鳴館女子大の面々は、この一つ上、最上階の五階で寝泊まりするらしい。
「はぁ〜、しっかし、相変わらず、倉成の女性関係は、見てて楽しいなぁ。ついに今日は本命登場かぁ。次回、乞うご期待、って感じだな」
「……そんなに明るく言わないでよ……」
  三島の台詞に、ぼくは溜め息をついた。ユウと一緒なのはいいけど、どうせだったら、二人きりで来たかった……って、そういう意味じゃないからね、一応言っておくけど。
「……ま、いいや。海行く準備しようよ。
  どうしようか?  ぼく達はすぐ済むけど、女の子達は時間掛かるし……先、行ってる?」
「……お前はそれでいいのか?」
「……はあ?」
  ……何か嫌な予感が……。
「倉成よ……」
  言って、三島はぼくの両肩を鷲掴みにした。
「今、向こうの部屋がどのような状況になっているのか、健全な青少年として想像力を働かせれば、すぐに分かるだろ」
「……それは妄想力です」
  三島の語りに、川崎がさらりと突っ込んだ。この二人はこういうコンビだ。
「ああ……人が触れてはいけない禁断の果実……しかし、それを食したために人は愛を知った。恋を知った。これがどれだけ偉大なことか、分からないとは言わせないぞ」
「……ちなみに、れっきとした犯罪です」
  またしても、さらりと突っ込む。……ぼくもそう思う……。
「大体だ!  お前は例え双子の妹とはいえ、沙羅ちゃんに、そういう感情を抱いたことは無いのか!?  あんな可愛い娘、そうはいないぞ」
「え……?」
  一瞬、ドキリとする。LeMUで行なった闇鬼で、沙羅ともつれて転んだ時、ぼくはたしかに……。
  いやいや、そうじゃなくて!!  まずい……誤魔化さないと……。
「……そんなことあるわけ無いよ。沙羅とは、一緒にお風呂入ったことあるけど、特に何も感じなかったし」
「……」
「……」
「……」
「何いぃぃ!!!  倉成ぃ!!  それは本当か!?」
「うん」
  一応、嘘は言っていない。
「……念のため聞いておきますけど、物心つくかつかない頃といった、ありがちなオチじゃないですよね?」
「……」
  キッチリ、ばれてるし……。
「何だ、そういう話か。うんうん。つまり、倉成。お前も一緒に行きたいと――」
「う〜ん、三島〜。どこに行くつもりなのかな〜?」
「決まってるだろ。我らが秘境探検部の聖地、『秘密の花園』へとだなぁ……」
「そこはきっと、天国で極楽で、約束の地なんですよね〜」
「ああ……って……」
  三島の顔がみるみる青ざめていく。人間って、こんなに血流を支配できる生き物だったんだ。
「さあ〜って、三島。じっくり、話し合いましょうか〜」
「ええ……先輩が言うところの『秘密の花園』でね……」
  解説するまでも無いけど、三島を恐怖のどん底に追い込んでいるのは、廊下に立つ沙羅と七草ちゃんだ。二人とも、口元は微笑んでるけど、目はまるで笑っていない。
  ……少し、声が大きすぎたよな……。
「……ちなみに、盛り上がってたの、三島先輩一人ですので……」
「こら、大悟!  お前、おれを売んのか!?」
「……」
  ……売るも何も……事実だし……。
「いや〜、三島先輩の二千万倍は信頼できる情報をありがとうございました、川崎君」
  七草ちゃんが、微笑みながら三島を引きずってゆく。
  可哀相な気もするけど、これは完全に自業自得だし……。
「……ま、いいか」
  ぼくはあっさり三島を見捨てると、海に行くための準備をすることにした。


「よぉ、ホクト。お前、海、入んないのか?」
  ビーチパラソルの影で座っていたぼくに、桑古木が話し掛けてきた。ちなみに、ぼくも桑古木も、トランクスタイプの水着とTシャツを着ている。
「……怪我が痛くて……」
  計算外だった……まさか、ユウに殴られた部分が、こんなに腫れるなんて……。
「うわっちゃ〜。ほんとに痛そうだな。でも、それにしたって、一人で女の子を眺めてるだけってのも、不健全だぞ」
「……」
  ……放っといてよ……。
「にしても、あれだな。こうしてみると、女子大教授の助手というのも悪くないな。いつでも、年頃の女の子と一緒に居れる♪」
「桑古木……発想が完全にオヤジだよ……」
「うっせ〜。おれはどうせ三十二だよ。お前からみりゃ、ダブルスコアだよ、二倍体だよ、二進法的桁違いだよ」
「……」
  何か、七草ちゃんみたいなこと言い出したけど……。
「はぁ〜あ、よっこらせっと」
  どこかで聞いた掛け声と共に、ぼくの横に腰を下ろす。
  桑古木も海には入らないのだろう。引率という立場もあるが、彼はキュレイ種だ。田中先生の開発したクリームとコンタクトレンズのおかげで、かなりの行動制限が解かれているが、真夏に長時間、日の光に身を晒すのは自殺行為に近い。
「……」
  何とはなしに、桑古木の横顔を覗いてみる。
  ……そう言えば、『倉成武』ではなく、『桑古木涼権』と話をしたことは、ほとんど無い気がした。
  事件終結後、ぼく達はそれぞれ新しい生活に入って……家族とユウ以外とはあまり会っていなかったからだ。ちょっと、話してみようかな……。
「ねえ……桑古木って、ココのことが好きなんだよね?」
「ん?  なんだ、いきなり?」
「いや……なんでかな〜って思って……」
  自分で言っておきながら、妙なことを聞いている気がした。話題と言えば、とりあえず恋愛の話から入るのは、高校生の悪い癖かも知れない。
「はあぁ〜。お前も、優みたく、おれをからかうのか?」
「え?  田中先生?」
「ああ……人を、犯罪スレスレだの、そっちの趣味があるだの色々好きに言いやがって……おれらを取り巻く環境が異常なまでに特殊なのを知ってて言うから、タチが悪い」
「そ、そうだよね」
「大体だ。年齢差のことを言うなら、お前のとこの両親だって相当なもんだぞ。一途に十七年も想い続けたのは同じなはずのに、この差は何だ!?」
「さ、さぁ……?」
  振った話題があまりにまずかった。まさか、こんなにコンプレックスを感じてたなんて……。
「関係あるかぁ!!  おれは彼女が“八神ココ”だから好きなんだ!  お前は何故、秋香菜を好きだ!?  彼女が“田中優美清秋香菜”だからだろ!?  仮に十七年前、“田中優美清春香菜”に出会っていたら、恋に落ちたか!?」
「そ、それは多分無いかな……」
「だろ!?  つまりは、そういうことだ!」
  そこまで語り終えると、桑古木は、あぐらをかいて一息ついた。何も、息が乱れるほどの勢いで喋らなくても……。
  ……でも、これで桑古木の想いがどれだけのものかは分かったし……意味の無い会話じゃなかったかな。
「ほうほう。桑古木、昼間から熱いね〜」
「あ、沙羅」
  いつの間にか、沙羅がぼく達の横に立っていた。彼女は群青色の布地に、波をイメージした水色の模様が入った、ビキニタイプの水着とパレオを身に着けている。
  ……ごめんなさい。ぼく、ちょっとだけドキドキしてます。
「でも、説教っぽく喋るのは、オッサンみたいだよ」
「うっせ〜。おれはどうせ三十二だ。お前から見りゃ、ダブルスコアだよ、二倍体だよ、二進法的桁違いだよ」
「……」
  同じネタを使いまわす辺りに、筋金入りの芸人でないところが見て取れる。
「それで沙羅、何か用?  あ、ひょっとして、休憩しにきたの?」
「ううん。あのね、なっきゅ先輩がお兄ちゃん、呼んでって」
「ユウが?」
「うん。さっきは悪かったって、謝りたいみたいだよ」
「……そうなんだ……」
  ちょっとだけ驚いた。こういう、どうでもいいケンカをした時は、大体ぼくが折れるのに……。
「うりうり〜。ほら、ラブラブなカップルしてきなさいよ〜」
「あ、うん……」
  沙羅が、自分の肘をぐりぐりと押し付けてくる。
  ……沙羅……その格好で、ぼく以外の男にそんなことすると、暴走するから気を付けてね……。
「……え?」
  顔を上げ、海を見遣った時に、何かを知覚した。
  いや、知覚と言うよりは、無数の情報が一瞬にして頭の中に流れ込んで来るというべきか……この感覚は前に、何度も――。
「……!」
  そこで、ぼくは“見た”。
  浜辺に、高波が襲いかかってきたのを。幸いにして、巻き込まれた人はほとんどいなかったけど、たった一人だけ――。
「ユウ!!」
「な、何だ。どうしたホクト!?」
「ユウが――ユウが波に襲われたんだ!」
「はぁ?  お前、この穏やかな状況で、何、訳分からんことを――」
  桑古木の声を聞くいとまもないまま、ぼくは駆け出した。
「ユウゥ!!!」
「……?  ホクト……?  どうしたの?」
  波打ち際で、少し沖合にいるユウに向けて声を上げた。
「そこから、すぐに離れて!!  高波が来るんだよ!!」
「……はあ?  また、この子はなーに、言っちゃってるかなぁ……それより、こっち来なよ。仲直りにバレーしようよ」
  呼び掛けは、何の効果も上げなかった。ぼくはすぐさま、海の中へと足を踏み入れる。
  途端――ユウの背後の水面が盛り上がった。
  波とは、水中を伝播するエネルギーだ。通常であれば、水深が浅くなるにつれ、行き場の無くなったエネルギーを、少しずつ水を盛り上げることで放出する。
  しかし、海底に窪みがあったり、急激に水深が浅くなっているところがあると、突然高波が発生することがある。今回のケースは、それに該当する。
「ユウゥ!!」
「え……?」
  彼女の表情が急激に変化するのが分かった。恐怖に引き攣る、と言うよりは、何が起こっているか分からず、呆けているという表現が正しいのだろう。突如として発生した海水の奔流は、そんな彼女を情け容赦無く、飲み込んだ。
  ぼくは、無我夢中で水をかき分け、彼女のもとに走り寄った。全身に痛みは走るし、水を充分に吸ったTシャツが身体にまとわりつき、動きづらい。だけどそんなことは、気にしていられない。ユウ、ユウ、ユウ!!
  やっとの思いでユウの元に辿りつき、ぼくは彼女を抱き上げた。脳震盪でも起こしたのか、うつ伏せのまま浮いていたのだ。水を大量に飲みこんでいたとすれば、それはかなり危険な状態だ。
「……」
  呼吸を確かめるため、口元に手をあてがう。正常だ。
  次いで、左胸に手を当てる。状況が状況だけに、いやらしいなどとは言っていられない。
  トクントクン……心音を感じる。
「……」
  ぼくは安心して、ほっと一息だけついた。
「……あ……ホクト……?」
  ユウが両の目をゆっくりと開けた。まだ少し呆けているようにも見えるが、ぼくのことはちゃんと見えているらしい。
「ありがとう……助けてくれたんだ……」
  ユウはそう言うと、ぼくのことを力強く抱き締めた。
  ぼくの心の中は、その行為に対する気恥ずかしさよりも、安堵の気持ちで一杯だった――。


「ぬぬぬ……おかしいです、不自然です、ありえません」
  海での一件が何とか落着し、全員がホテルに戻ってきてしばらくした頃のことだ。演劇部の大多数が、女子の大部屋でのんびりと会話をしていたのだが、珍しく大人しかった七草ちゃんが、突然、ぼくを指差したのだ。
  ちなみにユウは、念のため近場の病院に行ったのだが、特に問題無いと診断された。今は五階の部屋で沙羅や、ゼミの生徒と一緒に大人しくしているはずだ。
「倉成先輩。あの時、先輩はたしかに言いましたよね?  『高波が来る』って。あの状況では知り得るはずの無い情報です。何で、そんなこと言えたんです?」
「え……何でって言われても……」
「……七草君。そんなことはどうでもいいんじゃないかな?  ホクト君だって、ショックを受けているはずだ。そっとしておいてあげよう」
「それは……そうなんですけど……」
  栗山部長に言われ、七草ちゃんはちょっとだけしゅんとした。
「いや……おれも知りたいな、倉成。あの件以前にお前は海に入っていない。あそこの場所で高波が発生しやすいとは、分からなかったはずだ」
  三島が、壁に背をもたれさせたまま、そう言い放った。
  一見、クールに決めているようにも見えるが、全身、湿布やら絆創膏やらを無数に貼りつけているため、あまりカッコ良くはない。
「……うーんと……何て言っていいのか……」
  ……もしかすると、ものすごくまずい展開かもしれない……第三視点の話なんか始めたって分かってもらえる訳無いし……上手い言い逃れの方法は……。
「はあぁ〜、やれやれ」
  不意に、栗山部長が溜め息をついた。
「分かった、分かった。ホクト君、ちょっと、二人で話し合おう。みんなの前では君も混乱するだけだろう」
  言って、部長はこっちを見遣る。……え?  この目は……。
「……そうだな……どこかの部屋でもいいんだが、うちの部員のことだ。盗み聞きする可能性が高い……屋上に行こう。あそこなら、端っこで話せば、ほとんど風に紛れて消えるだろう」
「あ、はい。分かりました」
  すぐさま相槌を打って、廊下へと向かう。……やっぱり、間違いないよな……。
「いい風だ……最高の立地条件だね……ここのホテルは……」
「……珍しいね、ツァイツ……そっちから誘ってくるなんて……」
  屋上の隅の方、柵の前に立ち尽くすツァイツにそう語り掛けた。
「……放っておいたら、別に喋らなくていいことまで口にしそうだったのでね……」
「……」
  否定は出来なかった。正直なところ、あの助け船には感謝している。
「……それに当然、興味もある……君は何を“見た”?」
「……高波に飲まれるユウ……そのイメージが実際に起こるより先に、頭の中に流れ込んで来て――」
「……今まで“彼”に視点を貸していた時の様に?」
「……うん……良く似てた……」
「……」
  ツァイツは黙り込んでしまった。ぼくは間が持たず、何とはなしに彼の横に足を運び、下の方を見遣った。
  高い――。
  空は、LeMUの深さを五階建てのビルに喩えた。異世界のぼくは、ツヴァイトシュトック――つまりは、この二倍もの高さを泳いで昇ったのかと思うと、肝が冷えた。
「……僕には、過去、或いは未来に良く似た事件が起きたことは“見え”ない……つまり、これは単なる“未来視”だな……」
「え……?」
  理解できなかった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。じゃあ、今回ブリック・ヴィンケルは降りて来てないの?」
  “錯覚”が起きていないのなら、そういう結論を出さざるを得ない。だけどそうすると、未来を見たことに矛盾が生じる訳で……やっぱり理解できなかった。
「……“彼”の気配が無いことは断言する……残る可能性は一つだな。君自身が第三視点を持ち始めたんだろ」
「え……?」
  再び理解できなかった。
「ぼくが……第三視点を……?」
「ああ……愛の力が奇跡を起こした……などという説明よりは納得できるだろう?」
「それは……」
  どちらにせよ荒唐無稽だ。むしろ愛が何たらの方が、綺麗な気もするけど……。
「……もしかして……君は気付いていないのかい?」
「……何の話?」
「……君が“彼”の器に選ばれた理由だよ……」
「……?」
  訳の分からない話が続く。
「……それは……ぼくが倉成武と小町つぐみの息子で……桑古木涼権という少年と“錯覚”させるため……」
「……それだけ?」
「……他に何かあるの?」
  細かい話を始めれば、いくらでも思い付くが、大まかには今のでほぼ全てのはずだ。
「……もしや……君は阿呆か?」
「……は?」
  バカにされたことが、一瞬理解できなかった。
「……ひどい言い方だね……そりゃ、沙羅やユウには勝てないかもしれないけど、普通くらいだとは思ってるよ」
「……いや……君だけではないのかもしれない……もしかすると、彼女達にもこの様な意図はなく、偶然だったのかも……」
「……彼女達?」
「……田中優美清春香菜、桑古木涼権、そして彼――ブリック・ヴィンケル……つまりはBW発現計画を立案、計画した人達だよ……」
「???」
  言っていることが分からなかった。
「……君は疑問を感じたことはないのかい?」
「……今度は何の話?」
  抽象的すぎる話を続けるツァイツに腹が立ち、少し吐き捨てるように言ってしまう。
「……君が“彼”である時、君の意識は何処にある?  彼が君自身であるかのような、まるで別人格であるかのような、混濁した状態だろう?
  じゃあ、僕は何だ?  栗山聖と意識を共有しているか?」
「あ……」
  言われてみれば……。
「……僕が表に出るのは僅かな時間だ。長く出過ぎると、不都合が多いという理由もあるが、それだけじゃない。現実問題として大した時間、出ることが許されないんだ。栗山聖という人格と、意識を完全に分離させた状態でね」
「……だけど……それは何で……?」
  それこそ、理由が分からない。ツァイツはブリック・ヴィンケルと同じ四次元人な訳で……。
「……君は特別な存在なんだよ……言葉は悪いが、貴重なサンプル、と言ってもいい……」
「……サンプル……」
  嫌な響きだった。様々な思いが一瞬で交錯し、ぼくは吐き気さえ感じた。
「……焦らさないで教えろよ……田中先生との契約だろ。お前の知っている全ての情報をこっちによこすってのは」
「契約……?」
「……ああ……“契約”だ」
「……何の話だい、ホクト君?」
「お前なぁ!」
  頭に血が昇り、彼の右腕を握り締める。こいつののらりくらりっぷりは頭に来てたんだ。栗山部長には悪いけど、二、三発ぶん殴って……って……ホクト君?
「……一応言っておくけど、僕は女性が好きだからね。ホクト君は両方いける口かい?」
「……」
  ……まさか……時間切れ……?
「あ、いえ。何でもないです」
  慌てて、掴んだ右手を放す。
  ……ツァイツ……時間に制限があるなら、きっちり計算してくれ……。
  ぼくは心の中で溜め息をつくと、栗山部長にとってつけた言い訳をして、屋上を後にした。
  ……階下では、みんなが手ぐすねを引いて待っていた訳なんだけど……そのことについては触れないでくれると嬉しいかな……。


「……」
  眠れなかった。
  ぼくは月明かりだけが差し込む薄暗い部屋で、ぼんやりと天井を見上げていた。他の四人は既に寝入っており、先程から奇妙な寝言が聞こえてくる。
「……」
  ツァイツの言葉が気になっていたというのもある。
  だけど、最大の理由は、晩御飯の後にユウと少し話したことだと思う。
  あの時ユウは――。
『朝はごめんね。海ではありがとう。心配かけてごめんね。
  ……だけど、借りを作るのは私の性に合わないから――』
  そう言って、ぼくの唇に――。
『これでチャラだからね!』
  思い出しただけで、かぁっと顔が熱くなるのが分かる。
  ダメだ、ダメだ。このままじゃ、本当に眠れないよ……ちょっと頭を冷やしてこよう……。
  そう決めると、そっと部屋を出た。
  ……どうしようかな……浜辺でも散歩しようかな……もう砂浜も冷えてるだろうし……。
  実は、日没直後の砂浜というのは、ぼく達、赤外線視力保有者には辛い場所なのだ。砂自身に熱が残っていて、全体がうっすら光って見える。幻想的ではあるのだが、目が疲れて仕方無い。
「うん……いい風……こんないい場所をお金のために半世紀も放ったらかしにしてたなんて、ほとんど犯罪だよね」
  何とはなしに呟いてみた。
  周囲にあるのは、優しい月明かりと星明かり。打っては返すさざ波の音。そして頬を撫でる海風。それだけだった。
  それでもここは生命で満ちている。同じ海の側なのに、ユウがカルセル・デルフィーネの前で言った、『命あるものは私達だけ』という不自然さからは程遠い場所だ。
「……?」
  ぼくは前方に、良く見知った少女を知覚した。
  砂浜に座り込むその姿は、あたかも海より産まれし人魚姫の様に可憐で……また、それと同時に、このまま泡となって消えるのでは無いかという儚さも持ち合わせていて、ぼくは少しだけ不安になった。
「……沙羅……何してるの?」
「……多分、お兄ちゃんと一緒」
「……そう」
  相槌だけを打って、横に腰掛ける。そして、二人してしばらく、海を見遣っていた。
  穏やかだった。昼間の騒動がまるで嘘であるかの様に、波は小さな飛沫だけを舞わせている。
「……お兄ちゃん……また……ブリック・ヴィンケル……?」
「……分かんない……」
  正直に答えた。
「そっかぁ……でもまあ、なっきゅ先輩を助けたことに変わりないんだし、良しとしよう」
  うんうんと、一人頷いている。
  無理をしているのは誰の目にも明らかで、その表情はすぐさま沈んだものへと戻る。
「……お兄ちゃん……お兄ちゃんは……いつまでもお兄ちゃんだよね……?」
「……」
  自信を持って肯定するべきだったんだと思う。
  ……だけど、ぼくにはそれが出来なくて……いたずらに沙羅を不安にさせたことが、心に重くのしかかった。
「……それにしても……」
「……ん?」
「今の私達って、結構、洒落た状況にいるよね」
「……何の話?」
「地球の衛星と、今、私達がいる場所だよ」
「??」
  あれ……これって何処かで……。
「もぉ〜、お兄ちゃんは鈍いなぁ」
  言って沙羅は立ち上がり、右手を胸に当てると、両目を瞑った。
「長弓背負いし  月の精」
「あ……」
  そっか……お母さん……。
「月と海って言ったら、私達にはくらげじゃないよ」
「……そうだったね……」
  ぼくと沙羅をつなぐ道標の一つ。『月と海の子守り歌』。遥か過去の原体験として身体に染み込んでいる思い出。
  あまりの懐かしさに、ぼくの心は一杯になった。
「……今頃、何してるのかな、二人とも……」
「そりゃ、もう永世新婚夫婦でござるからなぁ。十八禁どころか、日本では検閲に引っ掛かるでござろう」
「そ、そこまで?」
「兄君もなっきゅ殿と早くそうなれるといいでござるな」
「……」
  ……まずい……折角、落ち着いてきたのに、また思い出しちゃった……。
「それにしてもお二人には妬けるでござる。拙者も誰か探すでござるかなぁ」
「いいんじゃない。沙羅、ものすごく可愛いから、いい人見付かるよ」
「……」
「……?」
  あれ、寂しそうな顔してる……褒めたつもりなんだけど……。
「……本当に……兄君の鈍さにはホトホト呆れるでござる……」
  沙羅はわざとらしいくらい大げさに息を吐き出した。
  次いで、再び右手を胸に当て、両目を瞑る。
「長弓背負いし  月の精」
「……夢の中より  待ちをりぬ」
  タイミングを合わせ、声を同調させる。
  ぼく達が眠れなかったのは、この歌を唄うためだった。そんな、少し気障なことを考えてみた。
「今宵やなぐゐ  月夜見囃子」
「早く来んかと  待ちをりぬ」
「眠りたまふ  ぬくと丸みて」
「眠りたまふ  母に抱かれて」
「真櫂掲げし  水の精」
「夢の中より  待ちをりぬ」
「今宵とりふね  うずまき鬼」
「早く来んかと  待ちをりぬ」
「眠りたまふ  ゆるゆる揺られ」
「眠りたまふ  海に抱かれて」
  唄い終え、お互いに顔を見遣る。
  ぼくと沙羅がここに居ること。兄妹だから当たり前のことのはずなのに、それは様々な奇跡の上に成り立っている。その中の一つにブリック・ヴィンケルがある訳で……ぼくは“彼”に感謝はしても、恨み言を言う気は全然無かった。
「……ありがとう、沙羅……おかげで眠れそうだよ」
「そりゃママ直伝、『最強の子守り歌』だもん。興奮してるなっきゅ先輩だって、一瞬でコロリ、だよ」
「興奮してるユウ……?」
  朝方のユウを思い出してみる。
「……ぷっ」
  思わず、噴き出してしまった。
「ふふふ」
「ははは」
  そうして、ぼく達はしばらく笑いあっていた。
  ありふれてはいるけど、貴重な日常。ぼくは今、間違いなく幸せの中にいるのだと、実感した。


  こうして、慌ただしかった合宿初日は幕を閉じた。
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