その日は、私にとって、ごく平凡な一日となるはずでした。
 田中さんが提出される資料を整理しつつ、多方面から寄せられる、ライプリヒ関係の方々の消息、並びに現状を把握する。これが、今の私のお仕事です。
 一日に処理しなくてはいけない情報量は膨大で、大変に忙しい毎日を送っています。それに以前とは違い、肉体を持った私は、休み無く働き続けるという訳にはいきません。一日のうち、ある程度の時間を、自分を労る為に割かなくてはいけません。
 しかし、私はこの生活を気に入っています。
 仕事そのものが好きだということはもちろんあります。ですが、最大の理由はあまり自分のことを考えなくて済む為です。
 ……そう。あの人のことを……。
 そんな私に、休む暇さえ無いほど仕事を回してくれる田中さんに厚意を感じるのは、気を回し過ぎでしょうか。いい様に利用されているだけ、と解釈することも出来ますが。
 ――ですが、流石に労働量が過剰だったのでしょう。
 私は、田中さんに言われ、本棚のファイルに手を掛けようとしました。しかし、天井につくほどの高さに立て掛けてあるそれには、手を伸ばしても届きません。
 仕方なく、脚立を持ち込み、その上に乗ったのですが――その途端に、目眩を感じました。
 視界がぼやけ、頭がぐらつくあれです。実体を持つ前は、この様なことは一度として無かったのですが……。
 そして、踏み台から足を踏み外した直後――私は意識を失いました。
 
 
「……」
 意識を取り戻し、身を起こした私の視界に入ってきたものは、白色、でした。
 白い壁。白い天井。白いカーテン。白いシーツ。そして、白い服を着た女性――。
 ここが、病院であると理解するのに、さして時間は必要ありませんでした。
「……気が付いたの?」
 女性が、小声で問い掛けてきました。
 金髪を肩口まで伸ばした、理知的な印象を与える顔立ちです。物言いからして、私のことを知っているように思えるのですが――。
「……あの……どなた、でしょうか……?」
「……はい?」
 女性は、頓狂な声を上げました。いえ……存じ上げないものは仕方ないのですが……。
「私よ、私。田中優美清春香菜」
「……はぁ」
 思わず、溜め息のような返答をしてしまいました。
 ですが、私の記憶には存在しない名前です。
「……」
 ――記憶?
「あの……申し訳ありません」
「……何?」
「私の名前……御存知無いでしょうか……?」
 
 
「……はぁ……」
 備え付けの椅子に腰掛けたまま、先程の女性――田中さんは深々と溜め息をつきました。
「……頭を打って記憶を無くすなんて……お父さん……あなたは偉大すぎるわ……」
 額に手を当て、首を振ります。
 あの後、私は精神科医と名乗る方に診察を受けました。
 診断結果は明瞭簡潔。全般健忘――世間的には記憶喪失症と表現した方が、通りが良いでしょう。
 つまり私は、一般常識や世事に関しての記憶は保持しているものの、自分自身に関して、並びに、その近辺の方々の情報を失ってしまったということです。
 失った、と言いましても、完全に無くなったという訳ではなく、引き出すことが出来ない状態にある、と表現した方が適確でしょう。
 数日安静にしていれば、ふとしたきっかけで元に戻る可能性が高い、と言うのが、診断結果です。
 唯、その間、田中さんがずっと渋い表情をされていたのが気に掛かりました。何か、不自然な所があったのでしょうか?
「……まぁ、いいわ……今日はもう遅いから……とりあえずゆっくり眠りなさい。又、明日一番で来るわ……」
「あ、すみません。その前に私の名前を……」
「……言わなかったかしら? 空、よ。茜ヶ崎空」
「空……」
 ……空。
 虚空。空虚。絵空事。空耳。空論。空缶。空室。空砲。空地。空洞。空想。真空――。
 どれも存在しないものばかりです……。
 名前を付けて下さった方は、一体どのような意図で――。
「……これでいい?」
「あ、もうひとつだけ……」
「……何?」
「私の名前……田中さんと比べて大変に短いような気がするのですが……ひょっとして、『空』という名前はかなり奇異なものなのでしょうか?」
「……」
 その言葉を聞いた途端、田中さんが落ち込まれてしまったように見えたのは、何故だったでしょうか……。
 
 
 翌朝――。
 私の病室に現れたのは、田中さんでした。
 唯、先日と比べ、髪が若干短く、雰囲気も異なります。話を聞いたところ、娘さんなのだそうです。あまりに良く似た顔立ちの為、同一人物なのではないのかと見紛いました。
「しっかし、空も災難だよね〜。記憶喪失なんて、ホクトや桑古木じゃあるまいし……って言うか、どういう原理でなるのか、ちょっと興味あるわよね」
「……原理……ですか……?」
「まあ、記憶回路が一時的に不通状態になってるとか、そんな所だとは思うけど……あまりに長引くようだったら、マヨに診てもらった方がいいかもね。
 ……でも、たまにはいいんじゃない? 空は働き過ぎなんだから、いい機会だと思って、少し休もうよ」
「はぁ……」
 秋香菜さんには悪いのですが、何をおっしゃられているのかが分かりません。
 記憶回路? 不通状態?
 何の話なのでしょうか……。
「……ところで秋香菜さん」
「何?」
「私と田中さん……もちろん秋香菜さんも含めてなのですが、一体、どのような関係なのですか?
 ……それに……私に家族のような方は……?」
「え……?」
 不意に、秋香菜さんの表情が曇りました。
「空……あなた自分が……ううん。気にしないで」
 首を振って、自分の言葉を否定しました。
 しかし、その言い方で気にならない人がいるはずはありません。
「あの……私は一体……?」
「……はぁ……驚かないで聞いてね」
 秋香菜さんは諦めたのか、小さく溜め息をつかれました。
「……あなたの正式名称はLM-RSDS-4913A……ライプリヒ製薬が経営していたテーマパーク、LeMUを管理することが主な仕事だったAI――つまりは人工知能よ……」
「え……?」
 理解し難い秋香菜さんの言葉に、私の思考は完全に停止しました。
 
 
「……AI……」
 あれから、何度この言葉を呟いたのでしょうか。窓から差し込む陽光は既に傾き、赤みを帯びてきています。秋香菜さんも帰宅してしまい、私は一人、ぼんやりと時が流れるまま、身を任せていました。
 AI――人工知能。つまりは、人が造りし疑似人格。
 私は……人ではない……。
 私の心にある感情は、衝撃、と言うよりは、混乱、でした。
 記憶を失い、私が何者であるかを考える時、私の中には『自分が人である』という前提がありました。
 両親が存在し、産声を上げてこの世に誕生し、幼年期、少女時代、思春期を経て今の自分がいると、無意識のうちに仮定していました。
 ですが、それらは全て私の勝手な思い込みで――今にして思うと、私の『空』という名前は意味深なものです。
 そこに存在していることを確かめる術が無い。まさしく、空、そのものです。
 私は……本当に、ここに存在しているのでしょうか……?
「こ、こら、優。そんなに強く引っ張るんじゃねえ!」
「……ここは病院。少しは静かになさい」
 不意に扉が開き、二人の男女が入ってきました。
 一人は田中さん。白衣を着ておられるので、始めは看護師の方かと思ったのですが、彼女が着ているのは、科学研究者用の、上着としての白衣です。
 ……本来は、薬品等が付着している恐れがある為、研究室を出る際に脱がなくてはいけないものなのですが……。
 もう一人の方は、男性です。
 サラサラの黒髪が特徴的で、整った顔立ちには何処か見覚えが――。
「え……?」
 トクン――。心臓が脈打ちました。
 いえ、私に心臓があるのかどうかは分かりませんが、そう表現する以外にありません。
 私は――ドキドキしています。
「ほら、空。倉成、借りてきたわよ」
「俺は物か!?」
「私有物みたいなもんでしょ?」
「……」
 田中さんの言葉に、男性――倉成さんは落ち込まれてしまいました。
 その場に座り込まれ、ぶつぶつと何かを言っておられます。そんな光景に、私は思わず噴き出してしまいました。
「……ん? 何だ、空。記憶喪失だって聞いたんだが、ひょっとしてもう全快か?」
「……いえ……ですが、おかしくてつい……」
「……そっか。まあ、結構元気そうで良かった」
 そう言って、倉成さんはベッドの横に置かれた椅子に腰を掛けました。
 何故でしょう。この方の顔を見ているだけで、私の心は落ち着きます。先程まで、自己の存在に悩んでいたのが嘘の様です。
「……それじゃあね、お二人さん」
「何だ、優。もう帰んのか?」
「私は倉成みたいに暇じゃないの。やらなきゃならない仕事がたっくさん溜まってるのよ」
「だあぁぁ!! ついさっき、人の仕事上がりを狙って拉致りに来た暇人は何処のどいつじゃぁ!!」
「……ごきげんよう」
「無視かよ!?」
 扉を閉める田中さんに向けて、倉成さんのナイスツッコミが入りました。
 ……?
 ナイスツッコミ?
「……ったく、優の奴、少しは大人びたかと思えば、中身は全然変わってやがらねえな……」
「仲がよろしいのですね」
「仲がいいっつうか……漫才の相方だな。自然にボケて、自然に突っ込む」
「田中さんに悪いですよ」
 私も又、自然に笑みがこぼれました。恐らく、私達の関係はこれが“自然”なのでしょう。
 不意に、そんなことを思いました。
「あ、そうそう。つぐみの奴から伝言があったんだ」
「……」
 ドクン――。心臓が強く鳴りました。
 先程の、心地良ささえ伴う胸の高鳴りではありません。喉が渇き、焦燥感さえ感じる、気持ちの悪い動悸です。
「つぐみさん……ですか……?」
 つぐみ……鳥の名前です。
 ですが、話の流れからして、どなたか人の名前なのでしょう。
 何故でしょう……この方からその名前を聞くだけで、たまらなくやるせなくなるのは……。
「ああ。『とりあえず今日の所は休戦。貸してあげるけど、あげないから』だそうだ。
 ……ちなみにこれを伝えないと、俺はとてつもない目に遭うと脅されているので……ま、気にしないでくれ。
 ――って、おい!?」
「……?」
 倉成さんが、何に驚かれているのか分かりませんでした。
「な、なに泣いてんだ!?」
「え……?」
 頬に手の甲を当ててみました。冷たい、感情の雫が筋を作っています。
 私は、間違いなく泣いていました。
「……」
 私は……何故泣いているのでしょうか……? 理由も分からぬまま、私の頬は加速度的に濡れてゆきます。
 そんな私を見てうろたえる倉成さんを横目に、私は唯、幼児の様に泣きじゃくることしか出来ませんでした。
 
 
「……はぁ……」
 私は天井を見上げたまま、溜め息をつきました。カーテンを閉めている為、月明かりさえ差し込まない、暗い病室の中で、です。消灯時間はまだなのですが、明るい部屋にいる気分にはなれなかったのです。
 その原因は、自己嫌悪――。
 私は倉成さんの前で、何故あの様な行動を――いえ……理由は大体見当がついています。
 ですが、それを受け入れ難い自分が居ることもまた事実なのです。
「……?」
 不意に、何かを知覚しました。身を起こすと、扉の隙間からコソコソと身を屈めている田中さんが見えました。
「……田中さん。面会時間は過ぎていますよ?」
「堅いこと言わないの」
 掠れるような小声でそう口にすると、そっと、扉を閉めました。そしてそのまま、私の右脇の椅子に座ってしまいます。
「……お土産よ」
 田中さんが鞄の中から取り出したのは、透明なビンでした。恐らくはロシア語であろう横文字が書かれたラベルの貼り付けられたそれは、明らかにお酒です。それも、かなり度数が高そうです。
「……あの……ここは病院ですよ?」
「平気、平気。消毒用エタノールなら、かなりの量を常備してある施設だから」
「……はぁ……」
 無茶苦茶な理論を展開し始めました。どうやら、口で勝つのは不可能の様です。
 私は諦めて、彼女が差し出したグラスを受け取ることにしました。
「……って、な、何なんです!? このお酒!?」
 口にした途端、燃えるような感覚が口内を襲いました。大きくむせ返りたいところですが、声を上げては面倒なことになります。
 私は呼吸を噛み殺す様にして、強引にその場を収めました。
「……大丈夫?」
「ええ……何とか……」
 ……何故でしょう? 軽い感じで言い放つ田中さんに対し、私の中に特別な感情が沸き上がってくる気がしました。
 ……これが、殺意、というものなのでしょうか……?
「ごめんなさい。これ、アルコール度数92度のウォッカだって言わなかったわね」
「……」
 ……とりあえず、殺意は収まりました。
 それと同時に、私と田中さんの関係が、なんとなく分かった気もしました。
「……本当にごめんなさいね……」
「……もういいです。一気に飲もうとした私にも落ち度がありましたし――」
「……そっちじゃないわ……倉成、連れてきたことよ……」
「……」
 トクン――。鼓動を感じました。
「……安直だったわ……素直に一番喜ぶことすればいいって思って……逆に苦しめちゃったみたいね……」
「……」
 言葉が出ませんでした。こちらを真摯に見遣っているであろう田中さんを直視することも出来ず、私は唯、前方を見詰めていました。
「……空……もう気付いてるかもしれないけど……あなたは倉成のこと――」
「……分かっています」
 何とか、言葉を絞り出しました。
「……あの……私はAI――人工知能ですよね?」
「……ええ……産みの親の一人は私のお父さん、田中陽一……だから、私と空は姉妹みたいなものだったりするんだけど……」
 呟く様にして、そう言い放ちました。
「……そんな私が……何故、倉成さんを……?」
「……さぁ? ……ここで私が理屈を付けたら空は納得するの?」
「……それは……」
 考えてみれば当然のことです。私は何を求めて今の質問をしたのでしょうか。
「……人がどうして人を好きになるのかも分からないのに、あなたが人を好きになっちゃいけないなんてことは無いわよ……」
 そう言って、田中さんはカーテンを開けられました。真円に近い月の光は思いの他明るく、私は目を細めてしまいます。
「……ここの部屋は海が望めるのね……月と海……皮肉な取り合わせね……」
「……」
 おっしゃられていることの意味は分かりません。ですが、今の言葉には何か深い意味があることだけは理解できました。
「……ねえ、空……もし仮に、あなたの中の倉成に対する想いを作為的に消せるとして……あなたはそれを望む?」
「……望みません」
 自然に、口をついて出ました。
「……何で?」
「理由はありません」
「……AIのあなたが理由の無い行動を取るの?」
「はい」
 それが、私の答なのだと思います。
「……そう……」
 田中さんは小さく呟かれますと、頬杖を突いて、窓の外を見遣りました。
 思いを巡らせているようにも、何も考えていないようにも見える複雑な表情です。
 私は何とはなしに、その横顔を見詰めてしまいました。
「……空」
「……はい」
「……飲みましょうか?」
「はい」
 すぐさま、返答しました。
「……それじゃあ……私の大事な妹。茜ヶ崎空に、乾杯……」
 カツン。グラスが触れ合う、小さな音が響きました。
「……妹……ですか?」
「ええ……私のあなたに対する愛おしさは多分、妹に対するもの……嫌なら姉でもいいけど?」
「……いえ、構いません」
 俯いたまま、そう、答えました。
「それでは私も……」
 グラスを掲げ、田中さんのそれに近付けます。
「……何に乾杯するの?」
「……私達の大事な人……倉成武さんに……」
 その言葉を聞いて、田中さんは、少し驚かれたかのような表情をされました。
「……空……ひょっとして記憶、戻った……?」
「……いえ。ですが、それくらいは分かります。私達は姉妹ですから」
 ニコリと微笑んで、そう口にしました。
 
 こうして、女だけの酒盛りは深夜にまで及びました。
 
 
 翌朝――。私の記憶は驚くほどあっさりと回復していました。
 これが人間で言うところの、追想障害であれば、記憶の回復と同時に、記憶を失っていた間の記憶を失うケースもあるのですが、そういうことはありませんでした。
 秋香菜さんがおっしゃられていた通り、記憶回路が一時的に不通状態になっていただけなのかもしれません。
「……」
 私の横には、両腕を枕にして眠る田中さんがおられます。
 その寝顔はあまりに幼く、『お姉さん』というものからは程遠いものです。思わず私は、笑いを噛み殺してしまいました。
「……」
 不意に、私の中にイタズラ心が芽生えました。いつも田中さんにはからかわれているのです。このくらいのことは許されるでしょう。
「お姉ちゃ〜ん。いつまで寝てるの〜? 今日、一限からゼミでしょ? 起きないと遅刻するよ〜」
「……!」
 ガバッ。
 田中さんは、勢い良く起き上がられました。そして、キョトンとした瞳のまま、周囲を見回します。
「……? あれ……? 今の……夢……?」
 髪が乱れたまま、こちらの思い通りの反応をしてくれます。
 私は笑いを堪えるのに、必死になってしまいました。
「……おはようございます。お姉ちゃん」
「……ああぁぁ!? 今の空!?」
「はい」
 出来うる限り爽やかな笑みを浮かべて、返答しました。
「くうぅぅ……空にしてやられるなんて……不覚……」
「それより田中さん、よろしいのですか? 今日は本当にゼミがある日ですよ」
「……ああぁぁ!! ……って空……あなた、記憶……」
「さぁ、行きましょう。今日もきっと忙しくなるのでしょうね」
 そう言って私はベッドから下りると、田中さんの手を引きました。少しバランスを崩されたようですが、すぐさま私のあとを着いて来てくれます。
 
 私達姉妹は、倉成武を愛しています。
 それはきっと、過去、現在、未来と、変わることの無い真実。
 私達はそれを抱えて生きていきます――。
 
                          了
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送