――視点。倉成ホクト。
「……ひま……だな……」
 とある休日の昼下がり。ぼくは視線を『古代インドの神々』と書かれた文庫本から、お父さんへと向けた。ちなみに今の台詞は、ここ三十分だけでも17回目である。今日一日の累計だと……あまり考えたくない。おかげで集中力はひどく散漫で、もし読書をする権利が法的に認められるのならば、絶対に勝訴する自信があった。
「……仕方ないよ。沙羅とお母さんは買い物に行って、ぼくたちは留守番なんだから」
 淡々と、事実だけを返してみた。この問答はお父さんの呟きの数だけ行なわれている。そして、この後にぼくが吐いてしまうため息の数も。
 そう。今この家にはお父さんと僕しかいない。普段であれば、四人一緒に出掛けるところなのだが、
 『たまには母娘水入らずで過ごしたいでござるよ』
 という沙羅の一声で、こうなってしまったのだ。お母さんはお父さんと離れてしまうのを若干渋っていたみたいだけど、沙羅の勢いに負けてしまった。お父さんとぼくは……二人に逆らうなんて考えもしなかった。後が怖いから。
 そんなこんなで昼食を食べてしまうと、特にやることは無かった。ユウを誘って何処かに行くことも試みてみたのだが、連絡がつかなくて断念。仕方なくぼくは読み掛けの本に手を伸ばし、お父さんはTVを眺めていたわけだ。
 ……ちなみに、当然といえば当然なのだが、お父さんが知っているタレントはほとんど映し出されない。極一部の大物は出てくるみたいなのだが、かなり老け込んでしまっているらしく、
『いやー、最近の特殊メイクは凄いよなー』
 と、無意味な現実逃避をしていた。
 ……で、最終的にはぼくにからんでくるわけである。
「いかん、いかんぞ、我が息子よ。若かりし頃は、時間が悠久にあると思いがちだがそんなことは無い。本人にとっては一夜の眠りのつもりでも、時は容赦無く流れ、気付いてみたら二児の父……などということは往々にしてあるのだぞ」
「……」
 中々、自虐的なギャグである。
「……くすっ」
「な、なんだ。そんなにおかしかったか?  いや、おれが眠っている間に世の感性が変わってしまったのか?  そんなことはあるまい。おれ様の感性は未来永劫、例え人類に取って代わって別種の知的生命体が世界を支配していたとしても通用するはずで、たかだか二十年弱の時間経過ごときでどうこうなるものでは――」
「あ、いやお父さん違うんだ。ただ……なんか嬉しくて……」
「……嬉しい?」
  言葉の意味を把握しかねたのか、お父さんは一瞬顔を呆けさせた。
「うん。お父さんが目覚めたばかりの時はあんまり甘えさせてくれなかったけど、今はこんなに……すごく嬉しいよ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……だあぁぁ!! 真顔でそんな照れくさいこと言うなあぁ!!  こっちまで意識しちまうだろうが!」
「……」
『ぼく、お父さんが真顔でお母さんや空になにを言ってきたか、知ってるんだけど』
 のどまで出掛かったその言葉は飲み込んでおいた。
 今はただ、お父さんと同じ時間を共有できることがとても幸せだったから。

 ――視点。倉成月海。
「はい、4913円になります」
 店員に指示されただけの通貨を渡し、対価として商品を受け取る。店員にしてみれば、私は相手をしなければいけない無数の客の一人に過ぎない。おそらくものの数分で記憶から消えてしまうであろう。
 闇から闇へと渡り歩くのではなく、人々の雑踏に紛れることで自己を消してしまう、ありふれた日常。私はこうなることを望んでいた。
 ……いや。この言い方は正確ではない。今私がおかれている状況は、望んでいたものよりも遥かに好ましいのだから。
「……うーん。ちょっと買いすぎちゃったかな……やっぱり、みんなで来た方が良かった?」
 床に並ぶ、片手では数えることの出来ない袋の多さに、沙羅は顔をしかめた。
「……大丈夫よ沙羅。私は結構、力あるから」
 小さく微笑むと、両手でそれぞれ三つづつ紙袋を持ち上げた。総重量は、私の体重の半分くらいはあるかもしれない。しかし意に介さずそのまま出口へと向かう。
「おぉ。流石は母上殿でござるな。母は強し、でござる、ニンニン」
「……?」
 私は、この子が時たま放つ奇怪な言動を理解できない。あまりに短すぎる共有出来た時間。それを思うと、やはり少し物悲しくなってしまう。
「……!」
 総合商店を出た際、急激な明暗差につい目を細めてしまった。
 ……そう。私は今、太陽の光を浴びている。優が開発してくれた、紫外線を遮断してくれるクリームとコンタクトレンズのおかげだ。聞く所によると99.999999999999999%まで遮断してくれるらしい。もちろん、海水浴に出掛けて一日中甲羅干しをするなどという無茶は出来ないが、ちょっとした買い物程度なら何の問題もない。
「……優にはまた借りが出来たわね……」
 小さく、呟いてみた。
「ん? あれ? ママ、あれなっきゅ先輩だ。おーい、なっきゅせんぱーい!」
 沙羅は大手を振って、優……いや違う。優の娘、ユウを呼び止めた。しかし気付かなかったのか、彼女はそのまま走り去ってしまう。
「あ、あれれ? なっきゅせんぱーい! 行っちゃった……何だか、様子が変だったけど……」
「……と言うより……少し涙目だった……?」
 目に涙を浮かべ、走り去る少女……普通であれば、ホクトが何かをしでかしたと勘繰るところなのだが……。
「……有り得ないわね」
 ベタ惚れのホクトに限って、そんなこと出来るはずはない。私が武に逆らえないのと同じ理屈だ。
「おい! ユウ! ちょっとは人の話を聞けぇぇい!!」
 不意に、意外な男の声を耳にした。
 桑古木だ。どうやらユウを追いかけているらしい。その差はおよそ17メートルといったところ。足に自信があるものなら二秒程度で走ることのできる距離だが、一向に縮まる気配はない。
 私はその光景を何とはなしに見遣ってしまっていた。

 ――視点。桑古木涼権。
「うわあぁぁん!」
「ユウ! 少しは落ち着け! って言うか、お前足速すぎんぞ!!」
 無呼吸で51メートルを潜水。12.5気圧から1気圧への急激な減圧。そして首を絞められようが、119メートルの深海に飛び込もうが、アセトンを顔面にかけられようが、ドロップキックを食らおうが耐えられるだけの肉体を保有する必要があった。おれが倉成武であるためには。
 もちろん、これらはキュレイ種であるおれにとって不可能なことではない。しかし同時に容易いことでもない。それ相応の努力をこの17年重ねてきたのだ。
 しかし彼女は、そんなおれを嘲笑うかのようにこちらと同等に、いやむしろほんのわずかだが遅れを取っているのかもしれない。
「流石は元苦麗無威爆走七代目総長……」
 ……深い意味は無い。単なるノリである。
「……はぁ……はぁ……こらぁ!! 田中優美清秋香菜!!  おれの話を――」
 ――途端。ユウは足を止めると、そのエネルギーを右足に蓄積し、地を蹴った。当然のことながらおれは全速力で走っているわけで、世の中には慣性という物があるわけで……ユウの左足とおれの顔面が対面するのに、ものの一秒と掛からなかった。
 ぱっこぉぉん。景気のいい音と共に視界は暗転した。そしてそのまま背中を打ちつけてしまう。後頭部はぶつけずに済んだが、ユウの着地地点がおれの腹の上だったので、あまり状況的によろしくはない。
「ちょっと桑古木、いきなりフルネームで呼ばないでよ!  しかも公衆の面前で!!」
「……」
『……ふっ……思えば17年前、優の奴も同じようなこと言っていたな……』
 薄れゆく意識の中、おれはこうなってしまった発端を思い出していた……。

 時はほんの二、三十分前。場所は優――田中優美清春香菜研究室。おれはちょっとした所用でここを訪れていた。少しばかり雑談をしていたのだが、気が付くと机の上に積まれた二つの書類の山を処分してくるように頼まれていた。釈然としなかったものの、まあいつものことである。そのうちの一つに手を掛け、膝と顎を使って運び易い格好を取る。
 不幸の始まりは、一枚の書類がはらりと床に落ちたことだった。
 今にして思えば、一度書類を机の上に戻せば良かった。或いは、拾おうとしてくれた優に任せても良かったのかもしれない。
 しかしおれは、反射的に膝を折り曲げ、片手を床に伸ばしてしまった。その途端に書類がバランスを崩したのだ。
 あの時、書類を見捨てて自分のことだけ考えても良かった。優に呆れられたかも知れないが、それはそれでたかが一瞬のことだ。
 ……で、書類を守ろうと体勢を立て直そうとして、一枚の書類に足を取られて、壮大に前のめりに倒れ込んで……結果として、目と鼻の先に優の目とか口とかがあって……そこにたまたまユウがやってきて……。
 ……ああ、そうだよ! お約束だよ! 前世紀の遺物だよ!!  軽蔑したいんなら軽蔑しろよ!!
 ……いや、原因に当たっても仕方ない……ユウを追わなくては……。
 おれは気合いを入れ、意識を無理矢理に覚醒させた……。

「う……うう……」
「お、目覚めたでござる」
「まったく……何をやってるんだか……」
 まどろみにも似たうすぼんやりとした意識の中、目を開いた。視界はまだぼやけている。覗き込んでるのは沙羅とつぐみと……ユウ?  そうか。話くらいは聞いてくれる気になったのか……。
 おれはゆっくりと身を起こすと、額に手を当て、かぶりを振った。
「……ん?」
 何か違和を感じた。心なし、ユウと沙羅がにやけている気が……いや……あのつぐみまで……?  それに何か鼻をつく匂いが……。
「……はっ!」
 慌てて、両手で顔を拭う。思った通り、そこには黒インクがべっとりと――。
「こら! お前ら、また!」
 言うが早いや、ユウと沙羅は笑いながら走り去ってしまう。
「お前らなぁ!」
「……あなたって……」
 不意に聞こえたつぐみの声に、二人を追おうとした足が止まってしまう。
「……最低ね」
「……」
「……」
「……」
「……これで満足かしら?」
 くすりと笑みを浮かべて言い放つつぐみに、おれはその場に立ち尽くすことしか出来なかった……。

 ――視点。田中優美清秋香菜。
「どうやら追手は巻けたようでござる。やはり忍びたる者、逃げ足は必需でござるな」
「そうね……」
 虚ろな瞳で、生返事だけをした。どこをどう走っていたかはよく覚えていないが、ここは公園らしい。小さな子供と、その親とおぼしき人達が何組か見受けられる。
「なっきゅ殿、元気がありませんぞ。心配無用。あの二人が一緒になるなんてありえないでござる」
「うん……分かってる……」
 嘘だった。お母さんと桑古木は17年もの間、同じ目的のため共に戦ってきた同志。娘の私にも言えない秘密を共有してきたのだ。そのような関係になったとしても、驚くほどのことではない。
 あの、桑古木に蹴りを入れた後、マヨ達になだめられて少し落ち着いた。だけど、心の中のざわめきは消えない。
 私は怖れている。ある日お母さんが、不意に義父を連れてくることを。その不安が一気に表面化したのだ。
 もちろん、お母さんの幸せを願っていないわけじゃない。桑古木には少し嫉妬してるけど、嫌いな訳でもない。ただ……現実感が無いのだ。
 あの事件が起こるまでに、そんなお母さんを想像したことが無いわけではない。でもそれはあくまで冗談と言うか空想に過ぎなくて……あの人に限ってそんなことはと、高を括っていたんだと思う。
 だけど重荷から解放された今、お母さんは心底疲れているだろう。誰かを頼りたくなるかも知れない。私はそれを祝福しなくてはいけないし、祝福できるとも思っていた。
 しかし私は明らかに拒絶している。非現実的な現象を論破できないもどかしさ。それに似た感覚が心を満たし、やるせなかった。
 知識を……無力だと感じていた……。
「……マヨ……」
「?? どうしました?」
「……ごめん……ちょっと恥ずかしいかもしれないけど……許して……」
「ええぇ!? な、なっきゅ殿、この様なところでその様な御無体を!  あ、でもなっきゅ殿になら――」
「……ごめん……」
 途端――私は泣いていた。頬に幾筋も涙が伝い、瞬く間に洪水となる。地面にいくつもの染みが広がり、同時に大声を上げた。道行く人は不審に思うだろう。指を差している子供も居るかもしれない。だけど私はマヨの胸の上で赤子の様に泣きじゃくった。
 そんな私を、マヨは一瞬だけ戸惑ったものの優しく抱き込んでくれた。暖かい。マヨの鼓動を感じる。今、自分がここに実存していることを確認できて、とても嬉しかった。
「……今回だけでござる。次からは、ちゃんと兄君に申してくだされ」
「……ありがと……マヨ……」
 いつしか、私の癇癪にも似た激情は収まっていた。大丈夫、私にはマヨがいる。ホクトがいる。それに……お母さんがいなくなるわけじゃない。
 これからも何度と無く惑うと思う。男の人を紹介される度に怯えるかもしれない。だけどお母さんには、今以上に幸せになってもらいたい。
『あなたは私の全てよ……』
 あの言葉の意味を、実感し始めていたから……。
「おぉ! なっきゅ殿。拙者いいことを思い付いたでござる」
「?」
 不意を突かれたため、私は顔に疑問符を浮かべた。
「なっきゅ殿と兄君が、夫婦の契りを結んでしまえばいいでござるよ」
「は、はい?」
 唐突な提案に、思わず頓狂な声を上げてしまう。
「そうすれば、拙者達家族になれるでござる。さすれば母上殿も寂しくないかと」
「……あのねえ」
 流石に呆れてしまった。口調が口調だけに、冗談だとは思うが。
「……そんなこと言ったら、ホクト独り占めしちゃうよ。ぐうの音も出ないくらいラブラブっぷり見せ付けちゃおうか?」
「そ、それは少し嫌でござる……うぬぬ……作戦は失敗でござるか……」
 マヨは少し顔を引き攣らせたが、すぐに微笑んだ。そして、二人して笑い合う。
「ではでは。その未来の花婿とやらにお会いしに行きますか。もちろんマヨも一緒にね」
「御意!」
 何故か額に手の平を合わせて敬礼するマヨ。『それは違うだろ』という突っ込みは飲み込んでおいて、私達は公園を後にした。

 ――視点。田中優美清春香菜。
「……はぁ……」
 これで一体何回目の溜め息だろう。目の前には今日中に仕上げなければならない報告書があるのだが、一行の半分、17文字しか埋まっていない。
「……なんで人間ってぎりぎりまで仕事を溜め込むのかしら……どんな突発事故があるか分からないのに……」
 集中してこなせば、三時間程度で終わる仕事である。昨日のうちに終わらせておけば。ううん、せめて桑古木が来る前にめどを付けておけば、と無意味だと理解はしているのだが、そう思ってしまう。
「……でもまあ、どーしようもない誤解だし、すぐ解決するでしょう」
 自己暗示を掛け、報告書に向き直る。
 しかし、やはり手に付かない。ユウにどう思われているかが気がかりで、思考の全てがそちらに染まってしまう。
「……ありえないでしょ、ユウ……私が桑古木となんて……」
 本当に? 自分に問い掛けてみた。答は……分からない。それだけしか言えない。
 だから私は考えてみることにした。順を追って、私が今おかれている状況を。
 私は恋をしたことがある? 答はある。2017年、あの事件の時、私は間違いなく倉成に恋をしていた。極度の緊張状態が擬似的な恋愛感情を産み出すことがあるらしいが、あれはそんなものではない。ユウを始めてこの手に抱いた時の感じた幸せ、あれに匹敵する程、私の心は満たされていた。だから答はある。
 私は今でも倉成のことが好き? 答は……分からない。……いや、この表現は適切ではない。私は考えることを放棄していた。倉成とつぐみが結ばれていたことを知り、その現実から目を背けていた。倉成とココを救うために全てを捧げる。そう自分に言い訳して、考えないようにしていた。だから答は分からない。考えるのは今でも怖い。
 倉成と桑古木は似ている? 答はNo。17年間、桑古木は倉成に成りきるため自分を偽ってきた。しかし偽りも時を積み重ねれば真実となる。普段の生活に戻っても、会話の端々、立ち振る舞いの至る所が倉成に酷似している。だけどそれはあくまで表面上だけのこと。彼の本質は17年前の、あのおっとりした気弱な少年なのだ。それは彼の人生の半分以上を一緒に過ごした私が一番理解している。だから答はNo。
 これらから導き出される結論は、『少なくても桑古木に倉成を見ていない』。それだけだった。桑古木本人をどう見ているかは結局のところ、よく分からない。もしかすると私はまた考えることさえ放棄しているのかもしれない。
「……でもねユウ……私が桑古木に手を出したら、逆光源氏みたいでしょ……」
 冗談を言えるくらいの余裕はあるらしい。思わず私は苦笑した。
 ――コンコン。不意に、ノックの音がした。
「開いてるわよ」
「失礼します、田中さん」
入室してきたのは、空だった。彼女は生真面目に一礼してから私を見遣る。
「空? 何か用でもあるの?」
「いえ……秋香菜さんがこちらに来られる予定だというので、お伺いしたのですが」
 空は、ユウのことを秋香菜と呼ぶ。2034年の記憶を共有しているものの、ベースはあくまで2017年のものだ。つまり、彼女にとって田中優は私で、倉成武はホクトの父親、少年は桑古木涼権を指す。
 ……ちなみに、籍を入れた今でも、つぐみのことは小町さんと呼んでいる。混同を避けるためだと解釈できるが、私には彼女なりの抵抗に見えて仕方が無い。
「ユウ? うーん……何と言っていいか……来たけど、帰ったわ」
「何か急用でも?」
「ええっと……突発的事故により、誤解があらぬ方向へと進み、その結果情緒が不安定に……」
「???」
 空は激しく混乱している。当たり前か。あまりに抽象的すぎた。
「まあ、とにかくここには居ないわ。もしかしたら戻ってくるかもしれないけど」
「……そうですか。分かりました。それでは戻られましたらご連絡下さい」
 再び一礼して、退室しようとする。本当に生真面目である。きっとこれはプログラムされているからではない。仮想人格部位が、限りなく本物の人格に近付き、自分の意志でそう判断しているのだ。肉体を手に入れた今となっては、本物の人間との差を見付ける方が難しいのかもしれない。
「……あ、空。ちょっと待って」
「はい?」
「ちょっと時間ある? 少し聞きたいことあるんだけど」
「構いませんよ。今日の仕事はほとんど終わっていますから」
「……」
 空にきっと悪気は無い。もし仮にあったら、この様な仮想人格を産み出したお父さんを、今の数百倍は尊敬してしまう。
「……聞きたいことっていうのはねぇ……倉成のことなんだけど……」
「は、はい! く、倉成さんがどうかされ、されました?」
「……」
 露骨である。これなら聞くまでもない。彼女は倉成を今でも好意的に思っている。
「……いや、仕事終わったら、倉成のところにでも行こうかなって思って。と言うより、もう終わってるのよね?  すぐ行ける?」
「はぁ……私は問題ありませんが、田中さんは……それに秋香菜さんのことも……」
 そう言うのも無理はない。床には桑古木が散らかした書類が散乱し、机の上にはいかにもやりかけといった、紙の束が積まれているのだ。これで出掛けようというのは普通の感覚では出来ない。
「大丈夫よ……ユウは私のことなんか放ったらかしだし、仕事も午前零時になるまでは今日だし、床は後で人間清掃機がかたづけてくれるでしょ」
「ひょっとして……桑古木さんのことですか?」
「そ」
 迷わずに即答した。
 うん、これでこそ私のペース。つぐみと一緒の倉成に会って、もう一度考え直そう。私が今、何を考えているのか。倉成を想っているのか?  桑古木を想っているのか? ……或いはどちらでもなくユウの幸せだけを願っているのか……。
 答はきっと簡単には出ない。何しろ17年解けなかった難問なのだ。少しずつ確実に解いていこうと思う。そうすることが、ユウに対する最大の誠意に思えたから……。
 私は意を決すると、自室の扉をゆっくりと押し開けた……。

 ――視点。倉成武。
「ああ、奥さん、やめて下さい。おれにはずっと昔から好きな人が――」
「……そういう武のバカなとこだけ真似てるから、振り向いてもらえないのよ」
「……」
「……」
「……うじうじ」
 桑古木はいきなり玄関先に座り込むと、ダークなオーラを放出しつつ、のの字を地面に書き始めた。
「……何やってんだ、お前ら……」
 玄関先が騒がしかったので来てみれば、つぐみと桑古木が訳の分からないコントをしていたのだ。とりあえず突っ込んでおくのが人情という物だろう。
「あ、武。うん、街で桑古木に会ったからお茶でも飲んでもらおうと思って」
「……茶を飲む雰囲気には見えんが……」
 桑古木を取り囲む空気は更に深い闇に包まれていた。例えるのであれば深海119メートル、IBF周辺の暗さに匹敵する見事なまでの闇である。ついでに、何やら呪詛のようなものまで聞こえてくる。
 このような危険人物をここに放置することは、おれらにとっても危険なので、とりあえず二人で中に連れ込むことにした。
「あれ……? この靴……」
 玄関には、おれらの物ではない赤い靴が置かれている。小さい子供が好んで使うような、派手な色彩のビニール靴だ。
「ああ、ココが来ててな。今はホクトの奴が相手――」
 キュピーン。桑古木の瞳に光が入った。いや、比喩ではない。明らかに豆電球でも点灯させたかのように明るくなったのだ。それと同時に、彼を包み込む闇もまた取り払われる。
「ココー!!」
 そう叫ぶと、一目散に部屋の奥へと消えていった。
「……こらぁ、桑古木ぃ!! 靴くらい脱ぎなさい!  誰が掃除すると思ってるのよ!」
 『おれか、ホクトだろ』心の中で突っ込むのが精一杯であった。
「はいはいはい! それではこれより、第289回顔面あっぷっぷ対決を始めます。まずはチャンピオン、ピピ二十歳」
「わん」
「いやー、ピピ選手は貫禄たっぷりですね。流石は無敗の王者です」
 奥のリビングでは、ココが楽しそうに司会を務めていた。そしてホクトは実況役か。
「対する挑戦者は、少ちゃーん」
「おおっと、挑戦者は桑古木選手です。あの17年前幻となったマッチメークですよ。これは往年のファンにはたまらないところですねー。解説のチャミさん。試合の展開をどう予想されますか?」
「……」
「なるほど、結果は黙して待てと。大変有意義なコメントありがとうございました」
 チャミはホクトの膝の上で視線をキョロキョロ動かしている。多分……いや、絶対に興味はない。
「勝てばココに認めてもらえる……勝てばココに認めてもらえる……勝てば――」
 一方の桑古木は悲痛な面持ちでぶつぶつこぼしている。隠す気があるのかは謎だが、とりあえず丸聞こえだ。
「それでは全日本顔面あっぷっぷ委員会発行2034年度版公式ルールブックに基づき説明させていただきます。勝敗は歯を見せるほどの笑みを見せた時点で決します。そして使用できる物は己の肉体のみ。洗濯バサミや鼻フック、ストッキングなどはもちろん、マイナスドライバー、のこぎり、徳利といった小道具も禁止です。時間は無制限の一本勝負、それでは、スタートです!」
 カーン。中華鍋をお玉で叩いて金属音を響き渡らせた。
 ――瞬間。双方の顔が一瞬によって変化する。ピピはまったくの正攻法。ココの手によって口が不自然に歪み、極端なタレ目になっている。このおれが撃沈された、唯一最強の奥義と呼んでいいだろう。
 桑古木の方は……何と言っていいのか。強いて表現するなら、出来が良い福笑い。パーツパーツの位置がほんの少しずつおかしいのだ。シュールなことこの上ないが、冷静に考えると吹き出してしまうので長期戦向けの戦術と言えるだろう。
「おお! どうやらお互い瞬殺とは行かなかった模様です。いや、桑古木選手はこれを見越してのあの顔なのでしょう。流石は名人戦!!  深い経験と駆け引きに裏打ちされた戦術。わたくし、久々に鳥肌が立っております!!」
 ホクトの高いテンションに誤魔化されるところだが、対峙している二人と一匹は全く動きを見せていない。おれらもただ傍観しているだけなので、傍目にはホクトが一人馬鹿騒ぎしているようにも見える。
「……ヒエログリフ」
 試合開始から三分程経った頃、つぐみが小さく呟いた。ちなみに一人と一匹は未だほとんど動きを見せていない。
「……なんだって?」
「ヒエログリフ、って言ったのよ」
「??」
 良く分からなかった。古代エジプトの象形文字がどうかしたのだろうか?
「解説しよう」
 そんなおれを見かねてか、ココが首だけをこちらに向けた。
「倉成夫人が言いたいのは、おそらくクフ王統治時代に行なわれた伝説の顔面あっぷっぷ対決のことであろう。当時クフ王はこの競技をいたくお気に入りで、強者には望むだけの報奨を与えていた。年に一度行なわれる大会では、広大な大地の津々浦々から野心を持った若者達が参加し、そして夢やぶれていった。……あの戦いもまたこの大会から生まれた……。決勝に残った二人はいずれも劣らぬ強豪。戦いは長期にわたると予想され、それは当たった。彼らは試合開始以来、ピクとも動かない。いや、動けなかったのだ。筋肉を緩めるということは、即、敗北に繋がる。そして、戦いは三日三晩に及んだ末に終結した。彼らは会場に立ち尽くしたまま、帰らぬ人となっていたのだ。クフ王は二人を英雄として扱い、家族の生活を恒久に保証したという……。
 っていうのがこの前出土されたエジプトのヒエログリフに書いてあったんだ〜。つぐみんは、この戦いがそうなっちゃわないかって心配してるんだよ、きっと」
「……ええ……その通りよ……」
「……」
 ちょっと待て、つぐみよ。おれが少し寝ている間に、お前までそっちの世界に逝ってしまったのか。いやいや、つぐみはココと仲が良かった。合わせてるだけだよな、うん。
「でもすごいよね〜。そんな人いたら、ココ尊敬しちゃうな〜」
 キュピーン。再び桑古木の瞳に光が宿った。どうやら気合が再充填されたらしい。動きは無いものの、顔に生気が満ち溢れているように見える。
「……ふふ……面白くなりそうね」
 ……言った。かなりの小声だが、間違いなく言った。
『……おれはひょっとして、悪魔と結婚してしまったのだろうか……?』
 心の声を気取られぬよう、極力冷静にソファに座ることにした。
 ――三十分経過。
「ただいまでござる」
「お邪魔します」
 二人の少女がリビングへ入ってきた。沙羅と優――娘の方だな。二人は物珍しそうに、この情景を見遣っている。
「?? パパ、これって……?」
「何も言うな、マイドーター。桑古木はな……今、大人の階段を駆け上がっているんだ」
 おれは激烈に感動していた。涙はとめどなく溢れ、全身の震えが止まらない。桑古木は三十分以上まるで動いていない。あのような不自然な顔付きではかなりの負担を強いられるだろう。キュレイ種であるからどうこうではない。生物としてありえない不自然さなのだ。
 あの、タツタサンドを踏み潰した少年が惚れた女のためにここまで……うおぉぉ!  桑古木、おれは決めたぞ! お前を応援する!  世間様がお前のことを真性のあれだとか、新しい恋に目を向けろだとか色々言うが関係ないぃ!!  お前は誠の男だ! おれが認める!!
「……くす」
 ……つぐみの含み笑いが興を殺いでくれる。
「……お父さん……ぼく、いつまでこうしてればいいの?  ココ寝ちゃったよ……」
 そうそう。ピピの顔を歪める役はホクトにバトンタッチしている。ココはテンションを上げすぎて疲れたらしくソファのつぐみにもたれていたのだが、いつしか膝の上で寝息をたてている。
「何を言う、ホクト。この状況においても勝負を終えないから価値があるのだ。見ていないところで努力をするからこそ、かっこいいんだ」
「かっこいい……かな……?」
 優の娘が何やら複雑な表情をしている。呆れているような、ほっとしているような……まあいい。所詮女には分からぬ浪漫の世界よ。
 ――更に五十分経過。
「くらなりー。遊びに来てやったわよー」
「失礼いたします」
 今日は客の多い日だな。さっきまで暇を持て余していたのが、信じ難いくらいだ。
「何だ、優。もう学生じゃないんだから、来るなら連絡くらい入れろよ」
「え……田中さん、何も申されていなかったのですか?  く、倉成さん、すいません。御迷惑なようでしたら、すぐに――」
「ああ、心配するな。ちょうどみんな揃って遊んでるところだから」
 ココが目を覚まし、みんなでトランプに興じていたところだ。ちなみに桑古木とピピは競技続行中。ピピのアシスタント兼審判員を十分交代で受け持っており、現在は沙羅が当番だ。
「あ、ユウ……」
「……お母さん……」
「お邪魔いたします、小町さん」
「……倉成つぐみ……それが名前」
「……」
 何やら、あちらこちらで空気が重い。テーブルでは、ホクトがココを相手にババ抜きをしているし、その後ろでは沙羅が真剣に桑古木と相対している。おれはちょっと浮いた感じだ。
「……そうそう、倉成。手土産にお酒、頼んでおいたから」
「酒?」
「うん。そろそろ来る頃だと思うけど」
 ピンポーン。見事なタイミングである。おれは玄関へと足を運んだ。
「ちわす。こちら倉成さんのお宅でしょうか?」
「あ、ああ……」
 おれは目を奪われていた。しかし何も赤ら顔にねじり鉢巻、薄汚れた白シャツに腹巻きと、とっくの昔に絶滅していると思っていたコテコテの酒屋オヤジが現れたからではない。その横にあるものに驚愕したのだ。
「……樽?」
 そこには一斗樽がドンと置かれていた。銘は知らないものだが、一升瓶十本分あることに変わりはない。
「へっへ、田中さんのご要望ですからね。とびきりのやつを用意させていただきましたよ」
「……いや、質がどうこうじゃなく……」
 ……諦めよう。最近の優はやることがどこか無茶だ。まあ、全員で気合いを入れれば飲めないこともないだろう。
「そ、それじゃご苦労さん」
「へい、ありがとやんした」
「……」
 オヤジが消えた後、冷静に考えてみた。成人は、おれ、つぐみ、優、空、桑古木。桑古木は戦力になるか分からない。そして、つぐみと空がそんな大量に飲むとは思えない。徳利一本でへべれけになってしまいそうだ。
 となると残りは……。
「……ホクトよ……おれは今日、お前に大人の付き合いというものを教えてやるぞ」
 決めた。優と二人で心中する気は無い。ホクトを巻き込む。公序良俗がどうとか、それでも父親か、という声が聞こえてきそうだが気にしない。おれは意を決して、樽を家へと転がせた。
 ――一時間二十分経過。
「にゃははははは」
「つぐみんのショートコント。もしも武の奥さんが沙羅だったら。
『ねえあなた〜。今度の休みに大江戸くの一館にいきましょ〜』
『ずるいよ、ママ。パパはぼくと一緒に遊ぶんだい』」
「今と何も変わってねえじゃねえか!」
「にゃははははははは」
 ……予想外だった。つぐみがここまで弾けるとは。しかも冷や酒をつまみもなしに枡でがぶがぶと飲んでいる。
 ……ん? 新陳代謝が著しく向上し……もしやキュレイ種は酒に異様なまで強いのか?
「いい、ホクト君。あなたに足りないものは男気よ」
「そぉよぉ、おろろぎなのよ」
「は……はい……」
 あちらでは優母娘がホクトを相手にくだを巻いている。済まぬ。おれはこっちで手一杯だ。
「一見頼り無さげで、守ってあげたいタイプなんだけど、実は芯が強いっていう流行りを追い掛けるのもいいけどねぇ……やっぱり最強は普段はおどけてるけど、いざとなったら惚れた女のために命も投げ出す。これに尽きるのよ」
「さいよぅよ〜」
「賛成いたします」
「……」
 息子の悲痛なテレパシー『お父さん、助けてー』が間違いなく聞こえた。しかし、現状を良く見ろ。こっちの方が大変なんだ。
「マヨちゃんのショートコントー。もしもお兄ちゃんと桑古木が恋仲だったら。
『ジュテーム、坊や。おれに惚れると火傷すんぜ』
『いえ、火傷くらいで済むのなら、あなたに着いていきますわ』
『はっはは。そこまで言うのなら仕方ない。共に地獄まで生きようぜ』
『はい……涼権……』
 きゃあぁぁ!! お兄ちゃんの馬鹿ぁ!! ……でもちょっと見てみたいでござる」
「見てみたいのかよ!」
「にゃはははははははは」
 ……ちょっと待て。つぐみ、ココ、沙羅がここに居て……あっちには優二人、ホクト、空……桑古木の奴はどうした?
 見回すと、部屋の隅で未だに硬直したままだ。しかも、今やピピのアシスタントはおらず、素の顔を相手している。桑古木……そんなお前を尊敬する……尊敬はするがな……いやいい。おれはお前を応援すると決めたんだ。こっちはおれで何とかしよう。
「おおぉ!」
 今度は何だ? どよめきみたいな声が聞こえたが……。
「た、田中先生……」
「ホクト君、あなたも男だから出来るわよね。嫌いあってるわけでもないんだし……って言うか、やんなさい」
 ギロッとホクトを睨み付ける。……優、完全にキャラ変わってるぞ……。
「ユ、ユウ……」
 話を総合すると、ホクトの男を見せるため、優の娘と唇を交わせということらしい。たしかに結婚式でもないのに両親と妹、それに相手の母親の前で出来れば、男ランクはかなり上昇する。おれ的にはランクDを与えてもいいくらいだ。
「……ホクト……だいちゅき、ちゅ♪」
 するといきなり、目の焦点が完全に外れているユウがホクトの首に両腕を回し、先制攻撃を食らわせた。ホクトが瞼を閉じるいとまも無いうちに、唇は奪われる。
「……ニアミスよ。それにホクト君からしなくては意味が無いの」
 どうやら、唇ではなく鼻の下あたりに当たったらしい。こりゃ、そうとう酔っ払ってやがるな。
「ホクトー。女の子に恥かかせたらだめよー。武はもっと積極的だったんだからねー」
「おぉ! 衝撃の告白でござる!」
「こ、小町さん。そのようなことを公然というのは如何なものかと」
「く・ら・な・り・つぐみ。空、記憶力ないの……?」
 ……ううむ。こりゃつぐみにゃ、これ以上飲まさん方が良さそうだな。とりあえずあの枡を取り上げるか。いやいや、おれは腹を空かせた猛獣のオリに手を突っ込むほどバカじゃない。……となるとだな……。
「……ん?」
 考え事に夢中になって気付かなかった。いつの間にか、つぐみがおれの前に立ち尽くしている。
「ねえ、武……」
 どぎまぎとした。いきなり猫なで声で話し掛けられたのだ。しかも朱に染まった頬、わずかに潤んだ瞳と普段の数倍は色っぽく見えたのだから堪らない。
「私達、今まで親らしいこと出来なかったよね……だからせめて教えてあげましょう」
「な、なにをだ?」
 返答を待つ間も与えず、つぐみはおれの首に腕を回してくる。この時点で大体予想はついていた。
「本当のキスのやり方……」
 やっぱり……って少し待て。本当の? うわっ、つぐみストップ。それはやばい。
「ん……」
 つぐみの柔らかさに、思考が中断した。貪るように求められ、本能的に目を瞑ってしまう。それを肯定と取ったのか、つぐみは腕に力を込め、全身を密着させた。舌を入れられると、更に頭の中が白く染まり、何も考えられなくなる。全身の力が抜け、ソファへと座り込んでしまう。そんなおれにつぐみは体を離すこと無く覆い被さり、尚もおれのことを求め続けた――。
「……ゴクン。これが大人のキスでござるかー……」
「く、倉成さんが、倉成さんが小町さんと……倉成さんが――」
「……ふう……若いわね……」
「やっぱり、たけぴょんとつぐみんは仲良しさんなんだ」
 全てが終わるまで三、四分といったところだったのだろうか。おれは陶酔しきったまま天井を見上げていた。胸の上ではつぐみが寝息を立てている。もしかすると、目覚めた時に今の記憶は残っていないかもしれない。
「――とまあ、今の感じでやってみなさい、ホクト君」
 さらりと、とんでもないことを言う優。ホクトは呆然としたままその場に立ち尽くしている。
「……いいかげんにしてよ!!」
 不意に、叫び声を上げた。
「……何を怒っているの? 好き合っているなら出来るでしょう?」
「……好きだよ……ぼくはユウのこと大好きだよ……でもだから出来ないんだ!  酔ったユウを襲うみたいな真似は!」
「ほへ?」
「……」
「……」
「……お兄ちゃん……」
 空気が止まった。誰もが言葉を失い、身動き一つ取れずにいる。
「……分かったわ」
「らーに言っれるのよ〜。わらひは、ぜんっぜん、酔っ払ってなんからいわよ〜」
「……ユウ……ちょっと黙ってて」
「……うん……」
 思考力が無いのか、ユウは素直に頷くと椅子に座ってしまう。そして、テーブルに突っ伏すと、眠りこけてしまった。
「……要するに、酔っていなければやってもいい……そういうことよね?」
「う……うん。でも、寝ちゃったし……」
「問題ないわ……」
 そう言うと、優は羽織っていた上着を椅子に掛けた。そしてホクトに詰め寄ると、覗き込むようにその顔を――ってちょっと待てい!
「優! お前も酔ってやがんな!!」
「……私は正気よ……」
「狂ってる人間が、自分を狂ってるなんて言うかよ!」
 慌ててつぐみを振り下ろし、救出に向かおうとしたのだが――。
「う、ううん……武の……バカ……」
 抱き付かれた腕を振りほどけず、立ち上がることさえ出来ない。
 バカはお前だ! 離せ、息子の貞操が危機だぞ!
「沙羅! 空! ココ! 見てないで優を止めろ!」
 一喝するも、三人は動かない。うっとりするような面持ちで、ただその光景を見遣っていた。
「……た、田中先生……」
「……春香菜、って呼んでくれる?」
「春香菜さん……じゃ、じゃなくって、な、何でこんなこと……」
「……年上は嫌い……? そうよね……ホクト君から見れば私なんて……」
「そ、そんなことは無いけど……」
 ああ……男ってのは、何でこう悲しい生き物なんだ……って、傍観してるばあいじゃねえ。放っておいたら後々大変なことに――。
「……お母さん……」
 途端――優の動きが止まった。ユウはまだうつ伏せのままだ。おそらく寝言であろう。優はホクトの顎に掛けた手を離し、ユウの元へと歩み寄った。
「……ユウ……」
 ユウの髪を撫でながら小さく呟いた。
「……ふふ、冗談よ……ユウの彼氏のあなたに、そんなことするわけ無いでしょう?」
 嘘つけ。目が完全にイッてたぞ。
「そ、そうですよね……あはは……」
 愛想笑いを浮かべて、取り繕うとする。ホクト……場の雰囲気に流されると、とんでもないことになるぞ。いや、おれじゃなく、異次元のおれがそう言ってる気がする。
「……はっ! い、いや〜、名演技でござったなぁ」
「そ、そうですね。さすがは田中さんです」
「ココ、ドキドキしちゃったぁ」
 ……お前ら……いや、もういい。全て円満に終わった。おれはそう思うことにする。
 つぐみに抱き付かれたままという全くさまにならない格好で、おれはことの解決を喜んでいた。
 ――2時間50分経過。
「パパ〜、楽しかったね」
「ああ……楽しかったは楽しかったが……なんかすげー疲れた……」
 お開きとなった後、おれとホクトは女性陣を送った。おれは近場だったので早かったが、ホクトは潰れたユウを背負っていたせいか、まだ帰ってきていない。そこで沙羅と共に、片付けをしているところだ。つぐみは当分目覚めそうも無いので寝室に運んでおいた。……あいつ、結局半分くらい飲んでなかったか……?
 そうそう。ピピ対桑古木、世紀の一戦は、ピピの電池切れにより無効試合となった。ピピの負けのようにも思えるが、公式ルールによると『不慮の事態により試合続行が困難となった場合、日を改めて再戦とす』らしい。どこまでも報われないように出来ているのかもしれない。
「またこういうの出来るといいね♪」
「……年に一回くらいならな……身が持たん……」
「……」
「……?」
 沙羅の顔は哀愁を帯びていた。……そうか。今まで一人で寂しかったんだったな。
「……まあ、みんなでは無理でも、おれ達だけでならちょくちょくな。もちろん、近所に迷惑が掛からない程度でだぞ」
「……パパ、大好き♪」
 沙羅が腕に飛びついてくる。前に比べると慣れたものの、やはり幾分気恥ずかしい。
 ――バタン。不意に寝室のドアが開いた。そこには頭を抑えたまま、壁にもたれるつぐみの姿があった。
「……武……」
「……なんだ?」
 何やら、様子がおかしい。酒が抜けきっていないのか、瞳はいつか見たような攻撃的な色を携えている。
「私を酔い潰した隙に女を連れ込むなんて……いい度胸ね……」
「は、はい?」
 いきなり無茶苦茶を言い出しやがった。
「な、何言ってんだ。良く見ろ、これは沙羅――」
「問答……無用……」
 途端――つぐみは床に落ちていた箸をこちらに投げつけてきた。すんでのところでかわしたものの、箸そのものはダーツの矢のように壁に突き刺さっている。
 ……こいつの方が忍者なんじゃねえか? 呑気に構えているうちに、第二撃が飛んできた――。
「ただいまー」
「あ……」
 第二撃――コショウのビンは、おれの頬を掠めて玄関へ飛んでいった。……そこに不幸にもホクトが帰ってきた訳で……。
 バッコォォン。額に直撃した。きっと今頃無数のお星様を目にしていることであろう。
「はほひえお……」
 完全に伸びてしまったホクトを、沙羅が介抱しにゆく。
「……ちっ……外れたか……」
 言いながらも、つぐみはじりじりと詰め寄ってくる。右手にはマイナスドライバーを携えて。

 ――かくして、御近所様に迷惑なことこの上ないおれ達の宴は幕を開けたのだった。



                          了
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